2013年2月28日(木)毎日、聖書を(使徒17:10-15)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
わたしが教会に初めて行った頃の1970年代、あちこちの教会の集会案内には、「聖書研究会」という文字があったように記憶しています。最近では「聖書研究会」という名前の集会を持っている教会は少なくなっているように思います。おそらく、「聖書研究会」という大げさな名前が、時代受けしないからかだと思います。もし、聖書の学びそのものが少なくなっているのだとしたら、それはとても残念です。
さて、きょう取り上げようとしている個所には、聖書から熱心に学ぶ人たちが登場します。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書使徒言行録 17章10節〜15節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
兄弟たちは、直ちに夜のうちにパウロとシラスをベレアへ送り出した。二人はそこへ到着すると、ユダヤ人の会堂に入った。ここのユダヤ人たちは、テサロニケのユダヤ人よりも素直で、非常に熱心に御言葉を受け入れ、そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べていた。そこで、そのうちの多くの人が信じ、ギリシア人の上流婦人や男たちも少なからず信仰に入った。ところが、テサロニケのユダヤ人たちは、ベレアでもパウロによって神の言葉が宣べ伝えられていることを知ると、そこへも押しかけて来て、群衆を扇動し騒がせた。それで、兄弟たちは直ちにパウロを送り出して、海岸の地方へ行かせたが、シラスとテモテはベレアに残った。パウロに付き添った人々は、彼をアテネまで連れて行った。そしてできるだけ早く来るようにという、シラスとテモテに対するパウロの指示を受けて帰って行った。
前回の学びでは、マケドニア州の州都であったテサロニケでの伝道の様子を学びました。この町での伝道は、パウロとは同胞のユダヤ人たちからの妨害を受けて、大変な困難を極めました。しかし、それでもユダヤ人の中から幾人かの人たちがキリストを信じるようになり、また多くのギリシャ人やおもだった婦人たちもパウロに従うようになりました。けれども残念なことに、反対者たちが起こした暴動と悪意に満ちた訴えのために、パウロとシラスはこの町を去らざるを得なくなりました。
きょう取り上げた個所によると、パウロとシラスの脱出は夜のうちに行われました。それは朝までは待てないほどに危険が身に迫っていたこと、また、夜の暗闇にまぎれて、より安全に危険を逃れるためであったと思われます。使徒言行録の記述によれば、「パウロとシラスは夜のうちに町を出た」という書き方ではなく、「兄弟たちが夜のうちにパウロとシラスを送り出した」という書き方です。パウロとシラスは誕生したばかりのキリスト教会のためにもっとテサロニケに留まっていたかったことでしょう。しかし、おそらくは兄弟たちの方から、パウロとシラスの身の安全を願って、この二人を送り出したのでしょう。
彼らが向かった先は、テサロニケから西へ70キロほど離れたべレアという町でした。14節を見るとテモテの名前も出てきますから、テモテも一緒にべレアに向かったのでしょう。
べレアに到着すると、さっそくユダヤ人の会堂に入ります。テサロニケでもそうでしたが、パウロたちはまずユダヤ人の会堂で伝道を始めます。異邦人への伝道のために遣わされたパウロでしたが(13:46、ローマ11:13、ガラテヤ2:8)、ユダヤ人の会堂をまず訪れるのには、いくつかの理由が考えられます。一つには、同胞のユダヤ人に対する思いということがあったと思われます。パウロはその思いを後にローマの信徒への手紙9章以下に綴っていますが、パウロはユダヤ人が救われる望みを絶えず持っていました。ですから、行く先々の地で、ユダヤ人の会堂を訪れることは、パウロにとってごく自然のことでした。
パウロがユダヤ人の会堂を訪れる理由は、異邦人伝道の手掛かりを得る上でも大切だったからです。というのは、ユダヤ人の会堂には、異邦人からユダヤ教に改宗した人たちや、ユダヤ教に対して関心を寄せる異邦人たちが少なからずいたからです。これらの異邦人たちは、聖書が教える事柄にたいしての予備知識をもっていましたから、異教にどっぷりと浸かっている異邦人よりも伝道しやすいという利点があったからです。
使徒言行録によれば、べレアの会堂に出入りするユダヤ人たちは、テサロニケのユダヤ人たちよりもずっと素直であったとあります。「素直」と訳されているギリシア語は、もともとは「高貴な生れの」という意味です。ここでは、べレアのユダヤ人がテサロニケのユダヤ人よりも高貴であったという意味ではなく、「心が広く、偏見がない」という意味です。
前回も学んだ通り、テサロニケでは同胞のユダヤ人たちからキリスト教に対する強い反感を受けました。その反感も、キリスト教に対するねたみと偏見とから来るものでした。そう言う意味で。べレアのユダヤ人たちはずっと素直であったというのです。というのも熱心に御言葉を受け入れたからです。
しかもべレアの人たちは、盲信的にパウロの語る言葉を鵜呑みにしたというのではありません。その通りかどうか、聖書に当たって吟味したというのです。もちろん、この場合の聖書というのは、新約聖書は完成されておりませんでしたから、今日でいう旧約聖書のことですが、それでも、そこにはキリストを証しするに十分な事柄が記されていました(ヨハネ5:39)。その聖書の言葉にべレアのユダヤ人たちは直接当たって、果たして本当にパウロが語っていることが正しいのかどうかを調べたのです。
そう言う意味でも、べレアのユダヤ人たちは心に偏りがない人たちでした。
さらに、使徒言行録によると、彼らは、毎日聖書を調べていた、とあります。気まぐれで聖書を開いて研究したというのではなく、来る日も来る日も、聖書の語る言葉に耳を傾けたということです。そう言う意味で、べレアのユダヤ人たちは、模範的な人たちであったと言えます。
ただし、聖書を調べた結果、全員がパウロのいうことを納得したというわけではありませんでした。そのうちの多くの者が信じたとあります。どちらが多数派であったとしても、誰一人として押し付けられて信じたのでもありませんし、誰一人として聖書を調べもせずにパウロたちを拒絶したのでもありません。
使徒言行録は、信じた人たちのグループに、「ギリシア人の上流婦人や男たちも少なからず信仰に入った」と報告しています。ただべレアでの伝道活動も、長期にわたることはできなかったようです。テサロニケで騒ぎを起こしたユダヤ人たちが、ここべレアでも妨害活動を起こしたからです。兄弟たちは再びパウロをこの町から送り出すことになりますが、しかし、それは決して福音の退散や後退ではありません。むしろ一箇所に留まらないということが、より急速に福音を拡大していく結果となったのです。パウロはこのベレアをあとにして、さらに大都市であるアテネへと向かったのでした。