2013年2月21日(木)テサロニケでの宣教(使徒17:1-9)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
太平洋戦争中、日本の国体に合わないという理由で、キリスト教の牧師や指導者たちが特高警察にしょっ引かれたそうです。その際に用いられた尋問の一つに「天皇とキリストとどちらが偉いか」という質問が用いられた、という話をよく耳にします。宗教的な問いなのか、政治的な問いなのか、どっちにしても今の時代からすれば馬鹿げた質問です。しかし、この質問は、当時の日本のキリスト教を弱体化させるには実によく考え抜かれた巧妙な質問でした。
似たような巧妙なやり口でキリスト教を弱体化させようとするのは、昔も今もあまり変りません。きょう取り上げようとしている個所にも、問題を巧みにすり替えて、キリスト教を排斥しようとするたくらみが描かれています。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書使徒言行録 17章1節〜9節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
パウロとシラスは、アンフィポリスとアポロニアを経てテサロニケに着いた。ここにはユダヤ人の会堂があった。パウロはいつものように、ユダヤ人の集まっているところへ入って行き、三回の安息日にわたって聖書を引用して論じ合い、「メシアは必ず苦しみを受け、死者の中から復活することになっていた」と、また、「このメシアはわたしが伝えているイエスである」と説明し、論証した。それで、彼らのうちのある者は信じて、パウロとシラスに従った。神をあがめる多くのギリシア人や、かなりの数のおもだった婦人たちも同じように二人に従った。しかし、ユダヤ人たちはそれをねたみ、広場にたむろしているならず者を何人か抱き込んで暴動を起こし、町を混乱させ、ヤソンの家を襲い、二人を民衆の前に引き出そうとして捜した。しかし、二人が見つからなかったので、ヤソンと数人の兄弟を町の当局者たちのところへ引き立てて行って、大声で言った。「世界中を騒がせてきた連中が、ここにも来ています。ヤソンは彼らをかくまっているのです。彼らは皇帝の勅令に背いて、『イエスという別の王がいる』と言っています。」これを聞いた群衆と町の当局者たちは動揺した。当局者たちは、ヤソンやほかの者たちから保証金を取ったうえで彼らを釈放した。
前回はフィリピの町で投獄されたパウロとシラスが、牢から釈放されるところまでを取り上げました。フィリピの町から追われたパウロとシラスは、アンフィポリスとアポロニアを経てテサロニケに到着します。当時の主要街道であったエグナティアに沿って進んだものと思われますが、フィリピからテサロニケまでの距離は150キロを超える道のりです。テサロニケはマケドニア州の州都であり、港湾都市でした。使徒言行録によれば、ここにはユダヤ人の会堂が置かれ、ユダヤ人たちの共同体があったことが知られています。パウロたちがテサロニケを訪問したのは、言うまでもなく、この都市がマケドニア州の州都であったからという理由もありますが、それゆえに多くのユダヤ人の移住者たちが大勢いたからだと思われます。
今までもそうでしたが、パウロはまずはユダヤ人の会堂で福音を語ることを習慣としていたようです(使徒9:20、13:5,14、14:1)。既に見てきたように、パウロがその宣教の対象を異邦人と定めた後も、ユダヤ人の会堂を訪れることを慣わしとしていたようです。
パウロたちはテサロニケの町で三回の安息日にわたってユダヤ人とメシアについて聖書から論じています。三回の安息日ですから、少なく見積もっても二週間以上、多く見積もっても三週間以上に渡る滞在期間になります。フィリピの信徒への手紙の4章16節には、フィリピの教会がテサロニケ滞在中のパウロを何度も支援物資を送って支えたとありますから、フィリピとテサロニケを往復する日数を考えると、その滞在期間は三週間をもっと越えるものであったと考えられます。
さらにテサロニケの信徒への手紙一の2章9節では、パウロは自分の手で働いてテサロニケの伝道を進めていたともありますから、その期間とフィリピからの何度にもわたる支援の期間を合わせれば、もっと長い期間テサロニケにいたと思われます。
ここでいう「三回の安息日」というのはパウロたちの滞在期間全体を指しているのではなく、テサロニケで宣教をはじめた頃の、ユダヤ人たちとメシアについて論じ合った期間を指しているのでしょう。
さて、パウロが聖書から論じたことは、メシアについての漠然とした期待についてではありませんでした。既に実現したこと、しかも、苦難のメシアと、それに続くメシアの復活についてでした。そして、その苦難のメシアであり復活のメシアが、他ならないナザレのイエスであることを聖書から論じたのです。
苦難のメシア、復活のメシアが誰であるかということを別にしても、そのようなメシアについての聖書の理解は、パウロの話を聞いたユダヤ人たちにとっても耳新しいものであったに違いありません。まして、そのメシアが、エルサレムの町の外で十字架にかけられて処刑されたイエスであると聞いては、あいた口がふさがらない思いをした人々もいただろうと想像されます。
これらの議論を通して信じたユダヤ人は、使徒言行録によれば「彼らのうちのある者」と控えめに記されています。しかし、ここでもユダヤ人たちにまさって、多くの神をあがめるギリシア人やおもだった婦人たちがパウロたちに従ったことが記されています。テサロニケの信徒への手紙を読む限りでも、テサロニケの教会を構成している信徒たちは異邦人から回心してキリスト教を受け入れた人たちが多数であったことが分かります(1テサロニケ1:9)。
さて、このことはユダヤ人たちの反感を買うこととなりました。というのも、キリスト教への改宗者たちのほとんどは、ユダヤ教に関心を抱き、ユダヤ教の会堂に集っていた異邦人であったからです。自分たちがせっかく種蒔いたものを、パウロが横取りしてしまったと、彼らの目には映ったのでしょう。
ユダヤ人たちがとった方法は、暴力的に描かれてはいますが、民の前にパウロとシラスを引き出して、まがりなりにも裁判の形を取ろうとしたものでした。しかし、残念なことに彼らはパウロとシラスを見つけ出すことができず、かわりにヤソンを捕らえて町の当局者たちに訴え出ます。ヤソンがキリスト教への改宗者の一人であったのかどうかはわかりません。パウロたちに宿を提供していただけかもしれません。いずれにしても、ユダヤ人たちが訴え出た口実は、パウロの宣べ伝えていた福音をまったく捻じ曲げたものでした。
たしかにメシアとは「油注がれた者」という意味で、ユダヤ人たちには王を意味する言葉でした。ただ、その一点だけを捉えて、ローマ皇帝に反逆する教えを宣伝している者たちである、としたのです。これはイエス・キリストを十字架刑に処するために訴え出たユダヤ最高法院の主張と全く同じです(ルカ23:2)。しかも彼らは、クラウディウス帝によってローマからユダヤ人たちが追放されることになった暴動とパウロたちを巧みに結びつけてしまいます。こうして自分たちの宗教上の問題をあたかも政治的な問題であるかのようにすり替えてしまったのです。
テサロニケでの伝道はこうして困難を極めたものでありましたが、このテサロニケに宛てた手紙で、パウロはこの教会をこう記してます。
「あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり、マケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範となるに至ったのです。」(1テサロニケ1:6-7)