2013年1月24日(木)聖霊の導くままに(使徒16:6-10)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
教会の伝道がうまくいっているとき、そこに聖霊の導きを確信することはそんなに難しいことではありません。よほど傲慢な人でない限り、伝道の成功を自分の手がらにする人はいません。どんなに周到な準備をし、どんなに人間の理性や感情を働かせて福音を伝えたとしても、その人が心開いてそれを受け入れるのは、やはり聖霊の働きがあるからです。聖霊の働き、聖霊の助けを抜きにして、伝道の成果など考えられないことです。
では伝道がうまくいっていないとき、それを聖霊の働きと結びつけて考えることはできるでしょうか。安易にそう考えることに誰もがためらいを感じます。それでは自分の足りなさや失敗を聖霊のせいにしてしまっていることになると感じるからです。謙虚な人であればあるほど、伝道がうまくいかないときに自分の力不足を嘆きます。
けれども、きょう取り上げようとしている個所には、聖霊によって、伝道が阻まれるという不思議な事態が報告されています。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書使徒言行録 16章6節〜10節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
さて、彼らはアジア州で御言葉を語ることを聖霊から禁じられたので、フリギア・ガラテヤ地方を通って行った。ミシア地方の近くまで行き、ビティニア州に入ろうとしたが、イエスの霊がそれを許さなかった。それで、ミシア地方を通ってトロアスに下った。その夜、パウロは幻を見た。その中で一人のマケドニア人が立って、「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください」と言ってパウロに願った。パウロがこの幻を見たとき、わたしたちはすぐにマケドニアへ向けて出発することにした。マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神がわたしたちを召されているのだと、確信するに至ったからである。
前回の学びでは、パウロとバルナバが別れ別れになって、それぞれ宣教の旅に出発する様子を学びました。この二人の間で起こった些細な、しかし、当人たちにとっては譲ることのできない激しい論争のことを思うと、この二回目の伝道旅行の行く末が、いったいどうなるのかと不安になります。
しかし、そのような出だしのつまずきにもかかわらず、パウロはテモテという新しい助け手を得て、日ごとに教会に加わる人数を増やして行きました。人間的な激論や分裂にも積極的な意味を与えてくださり、福音が広がるようにと導いてくださる神の摂理の不思議さを思います。
けれども、きょうの個所では、いきなり、聖霊によって伝道にストップがかかります。御言葉を語ることを聖霊から禁じられ、行こうとする道をイエスの霊が塞いでしまいます。
「御言葉を語ることを聖霊から禁じられた」とか、「イエスの霊がそれを許さなかった」ということが、具体的に何を指しているのかは定かではありません。語ろうとしても急な病気で語ることができなかったのか、あるいは福音に反対する者たちの妨害で町に入ることができなかったのか、実際に何が起こったのかは詳しく記されていません。使徒言行録は一言、「聖霊から禁じられた」とか、「イエスの霊がそれを許さなかった」と言う言葉ですべてを片づけてしまっています。
もちろん、使徒言行録がこの出来事を記しているのは、すべてのことが起こってからのことです。この先何が待ち構えているのか、すべてを知ってからのことですから、過去を振り返って「聖霊から禁じられた」とか、「イエスの霊がそれを許さなかった」と起こった出来事を確信をもって書きしるすことができたでしょう。しかし、そのときその場に居合わせたパウロやシラスやテモテにとって、御言葉が語れない現実を、「聖霊がそれを禁じている」とか、伝道の地に入ることができない理由を「イエスの霊がそれを許していないからだ」などとすぐに受け止めることができたでしょうか。特別な啓示があれば別ですが、そうでなければ、御言葉を語れない現実、宣教の予定地に入れない現実を、「聖霊がそれを禁じているからだ」などとは思いも寄らなかったことであると思います。
この使徒言行録の僅か数行の記録の行間には、パウロたちの苦悩があったことを読みとらなければなりません。福音の宣教を目指す者にとって、その働きが思うように進まず、妨げられることほど苦しいことはありません。まして、その伝道の出だしが人間的な分裂から始まったとなれば、伝道がうまく進まないことを自分たちへの神からの懲らしめであるという思いも芽生えるかもしれません。
パウロたち一行は行く先々で伝道の成果を上げることもなく、まるで追い立てられるようにアナトリア半島の北西の端、トロアスにまでやってきます。もうほとんど自分たちが思い描いた二回目の宣教旅行の旅程とは違っています。この先は海を渡ってマケドニア州に行くか、ここで宣教旅行を諦めてアンティオキアに引き返すか、どちらかしか道はありません。おそらくパウロの最初の計画には海を渡るなどという大きなヴィジョンはなかったことでしょう。となれば、ここで宣教を諦めて引き返すしか、取るべき選択の道はありません。
ここでパウロたちにとって思いもよらない出来事が起こります。それは、幻の中で一人のマケドニア人が、パウロに自分たちのところに来てほしいと願ったのです。マケドニア州というのは、今日のギリシアに当たりますが、パウロたちの伝道旅行にとっては思いもよらない展開です。福音が自分たちが思い描くよりも遥かに遠く広い範囲に広がろうとしていることを悟ったのです。ここで初めて、パウロは神が自分たちに何を願っているのかを確信いたしました。
さて、わたしたちはここから何を学ぶべきでしょうか。もちろん、キリスト教の福音宣教の歴史にとって、新たな展開となったこの出来事の意義の大きさは言うまでもありません。しかし、それとは別に、「聖霊の導きに従う」ということの意味を改めて考える必要を覚えます。
今までのパウロにとっては、聖霊の導きのままに福音を語り、聖霊の導きのままに大きな伝道の成果を見ることができた、というのが宣教旅行でした。しかし、今回は必ずしもそうではない事態も経験しました。聖霊の導きのままに御言葉を語ることが禁じられ、聖霊の導きのままに宣教の予定地を変更し、何の成果も上げることもなく、それでも聖霊の導きに従うという経験です。もちろん、そうであったからこそ、オリエントからヨーロッパへの福音の道が開かれたのですが、しかし、その途上は決して易しい道ではありませんでした。
聖霊に従うということは、御言葉を語れない状況をも受け入れ、予定していたことが思うように進まないことをも受け入れる従順さが求められています。人間の思いを超えて神がなそうとしていることを期待し、それが実現するために、たとえ自分にとって屈辱的と思える状況をも受け入れることです。福音が停滞していると思える時も、神はその次の進展を確実に用意してくださっているのです。