2012年11月15日(木)イスラエルの選びからメシア到来まで(使徒13:13-25)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
わたしが初めて聖書を読んだのは中学を卒業してからのことでした。それまで自分で聖書を読んだことなどありませんでしたし、何が書いてあるのかも、ほとんど知りませんでした。初めて聖書を手にして驚いたことは、そこに記されていることが、ほとんどイスラエル民族の歴史にかかわることだということでした。
きょう取り上げるパウロの説教も、まさにこのイスラエルの歴史から語り出しています。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書使徒言行録 13章13節〜25節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
パウロとその一行は、パフォスから船出してパンフィリア州のペルゲに来たが、ヨハネは一行と別れてエルサレムに帰ってしまった。パウロとバルナバはペルゲから進んで、ピシディア州のアンティオキアに到着した。そして、安息日に会堂に入って席に着いた。律法と預言者の書が朗読された後、会堂長たちが人をよこして、「兄弟たち、何か会衆のために励ましのお言葉があれば、話してください」と言わせた。そこで、パウロは立ち上がり、手で人々を制して言った。
「イスラエルの人たち、ならびに神を畏れる方々、聞いてください。この民イスラエルの神は、わたしたちの先祖を選び出し、民がエジプトの地に住んでいる間に、これを強大なものとし、高く上げた御腕をもってそこから導き出してくださいました。神はおよそ四十年の間、荒れ野で彼らの行いを耐え忍び、カナンの地では七つの民族を滅ぼし、その土地を彼らに相続させてくださったのです。これは、約四百五十年にわたることでした。その後、神は預言者サムエルの時代まで、裁く者たちを任命なさいました。後に人々が王を求めたので、神は四十年の間、ベニヤミン族の者で、キシュの子サウルをお与えになり、それからまた、サウルを退けてダビデを王の位につけ、彼について次のように宣言なさいました。『わたしは、エッサイの子でわたしの心に適う者、ダビデを見いだした。彼はわたしの思うところをすべて行う。』神は約束に従って、このダビデの子孫からイスラエルに救い主イエスを送ってくださったのです。ヨハネは、イエスがおいでになる前に、イスラエルの民全体に悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。その生涯を終えようとするとき、ヨハネはこう言いました。『わたしを何者だと思っているのか。わたしは、あなたたちが期待しているような者ではない。その方はわたしの後から来られるが、わたしはその足の履物をお脱がせする値打ちもない。』」
前回から、パウロたちによる第一回の宣教旅行についての学びを続けています。前回はバルナバの出身地であるキプロス島での宣教の様子を学びました。今回はピシディア州のアンティオキアでのできことを取り上げますが、長い個所ですので、三回に分けて学ぶことにします。
キプロス島のサラミスからパフォスまで、島全体を巡るように東から西へと進んだパウロ一行は、パフォスから再び船に乗って北北東に進み、次の目的地に向かいます。一行が船を降りて、小アジアにあるパンフィリア州のペルゲという町に着いた時、マルコと呼ばれるヨハネは一行を離れてエルサレムに帰ってしまいます。
このヨハネがエルサレムに帰ってしまったことを、使徒言行録がわざわざ記しているのには理由があります。それは、後に二回目の宣教旅行に出かけるときに、パウロとバルナバが、このヨハネを連れていくかどうかで大激論になって、とうとう別行動を取らざるを得なくなってしまったからです(使徒15:36-41)。
もし、この事件がなければ、パウロ一行がペルゲの町を訪れたという記録も残らなかったかもしれません。いえ、この事件がなければ、この町について、もっと他のことが記録にとどめられたかも知れません。ちなみに、帰りのルートをたどってみると、パウロたちは再びこのペルゲの町を訪れて、御言葉を語っています(14:25)。
パウロたちはペルゲを後にして、さらに小アジア内陸へと北上して、ピシディア州のアンティオキアに向かいます。正確にはピシディア州ではなく、ピシディア州寄りにあるフリュギア州のアンティオキアです。この町は皇帝アウグストゥスの時代にローマの植民地とされた、軍事的にも商業的にも重要な町でした。海岸のアタリアから百五十キロほど内陸で、標高は千メートルにもなりますから、それは大変な旅だっただろうと思われます。
さて、このアンティオキアにはユダヤ人たちの社会があり、安息日ごとに礼拝を守るユダヤ人たちの会堂がありました。パウロたちは安息日に真っ先にこの会堂で礼拝を守ります。
律法と預言書が朗読された後、会堂長たちから勧められて、パウロは語り始めますが、パウロが語る内容は、彼らの予想していたものとは違っていたかもしれません。パウロやキリスト教のことについて、この町までどれほどの情報が伝わっていたのかは定かではありませんが、少なくともパウロを指名して語らせたくらいですから、パウロについての予備知識がまったくなかったとも思えません。
パウロはイスラエル民族の選びから語り始め、ダビデが王として立てられるまでの歴史をとうとうと語ります。ここにはアブラハムの名前こそ出てきませんが、「この民イスラエルの神は、わたしたちの先祖を選び出し」という語り出しの言葉に、神の約束がアブラハム、イサク、ヤコブへと受け継がれてきた歴史が込められていることは明らかです(使徒13:26参照)。モーセによるエジプトからの脱出、荒野での試練、約束の地カナンへの入植、さらにはカナンに入ってからの士師たちの時代と最初の王が与えられるまでの歴史を一気に語り、ついにダビデがサウルに代わって王として立てられ、神の約束の継承者となったことを語ります。
しかし、イスラエルの実際の歴史は、そのあと下り坂へと向かうのですが、パウロはその一切を省略して、その歴史の到達点として、「神は約束に従って、このダビデの子孫からイスラエルに救い主イエスを送ってくださったのです」と語ります。
イエスというお方は、歴史の流れと無関係に、ひょっこりと現れたのではありません。それは、神の長い救いの歴史の中で、時間をかけて準備され、時満ちて、神の約束の成就としてやって来られたのです。
この主張はパウロだけの歴史観ではありません。新約聖書のあちこちにみられるものです。新約聖書の冒頭に置かれているマタイによる福音書の長い系図の記録が、まさにそのことを語っています。
ところで、パウロはここで、洗礼者ヨハネの活動についても触れます。ここまでのパウロの説教の流れからすれば、ヨハネの活動についてあえて触れないとしても、十分に神の救いの歴史を解き明かしています。
しかし、パウロはあえて、この洗礼者ヨハネが自分自身は期待されている者ではないという証言をした、という事実を語って、待つべき約束のお方がイエス・キリストをおいて他にはいないことを強調しています。事実、イエス・キリストこそ、神が歴史を通して約束して来られた、来るべき救い主なのです。