2012年10月11日(木)アンティオキアの教会(使徒11:19-26)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
死者の中から復活されたイエス・キリストは弟子たちに「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」とお命じになりました(マタイ28:19-20)。いわゆる「大宣教命令」と呼ばれる有名な言葉です。ここに「教えなさい」と言われているところから、教会の宣教の働きは教育的な伝道であるべきだ、と言われます。確かに何を信じ、何を守り行うのかは、教えてもらわなければ知りようがありません。その点を曖昧にして、とにかく信じる者が何人現れた、洗礼を受けた人が何人起こされた、といっても意味がありません。
しかし、使徒言行録を読んでいると、あまりにも短い期間で多くの人々が福音を受け入れているために、地道な教育的伝道というイメージからかけ離れているようにさえ感じられるかもしれません。しかし、それは使徒言行録がきちんと記していながらも、そういった爆発的な伝道の成果の陰に隠れてしまっているものをわたしたちが見落としてしまっているからにほかなりません。きょうの聖書の個所にも異邦人伝道の成果が記されていますが、しかし、ここにも見落としてはならない大切な事柄がちゃんと記されています。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書使徒言行録 11章19節〜26節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
ステファノの事件をきっかけにして起こった迫害のために散らされた人々は、フェニキア、キプロス、アンティオキアまで行ったが、ユダヤ人以外のだれにも御言葉を語らなかった。しかし、彼らの中にキプロス島やキレネから来た者がいて、アンティオキアへ行き、ギリシア語を話す人々にも語りかけ、主イエスについて福音を告げ知らせた。主がこの人々を助けられたので、信じて主に立ち帰った者の数は多かった。このうわさがエルサレムにある教会にも聞こえてきたので、教会はバルナバをアンティオキアへ行くように派遣した。バルナバはそこに到着すると、神の恵みが与えられた有様を見て喜び、そして、固い決意をもって主から離れることのないようにと、皆に勧めた。バルナバは立派な人物で、聖霊と信仰とに満ちていたからである。こうして、多くの人が主へと導かれた。それから、バルナバはサウロを捜しにタルソスへ行き、見つけ出してアンティオキアに連れ帰った。二人は、丸一年の間そこの教会に一緒にいて多くの人を教えた。このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである。
ステファノの事件については、使徒言行録の6章から7章にかけて詳しく記されていました。ギリシア語を話すユダヤ人キリスト者であったステファノは、モーセの律法と神殿に対する独特な見解のために、伝統的なユダヤ教を遵守するユダヤ人から迫害を受け、とうとう殉教の死を余儀なくされました。このことをきっかけに起こった迫害のために散らされていった人々が、福音を語りながら巡り歩いたことについては、すでに8章4節に記されていた通りです。とくに8章ではステファノの仲間であったフィリポによってサマリア人伝道がなされ、さらにはエチオピアの宦官が福音を受け入れた様子が報告されました。
きょうの個所では、ふたたびステファノの事件で散らされていった人々の足取りが報告されます。その人々はフェニキア、キプロス、アンティオキアまで福音を語りながら散らされていきますが、ユダヤ人以外の誰にも福音を語らなかったと記されています。
つまり、その前にフィリポが成し遂げたサマリヤ人伝道やエチオピアの宦官への伝道は、むしろ少ない事例だったということが分かります。大多数の人々は、散らされていっても、主としてユダヤ人に対してだけ福音を語り続けていたのです。しかし、またしても聖霊の不思議な導きによって、人間の思いを超えた出来事が起こります。
それはキプロス島やキレネからきた人々が大胆にもギリシア語を話す人々にも福音を伝え始めたということです。この場合の「ギリシア語を話す人々」というのは、ユダヤ人でギリシア語を話す人、という意味ではなく、ユダヤ人以外でギリシア語を話す人々、つまり異邦人たちにも福音を語り始めたということです。
確かに異邦人への伝道はフィリポやペトロによって先鞭がつけられていました。しかし、フィリポが福音を伝えたエチオピアの宦官にしろ、ペトロが福音を語って聞かせたコルネリウスの一家にしろ、ユダヤ教の背景が全くない人ではありません。エチオピアの宦官はすでに聖書を手にしていましたし、コルネリウスもすでにユダヤ人の信じる神を畏れる人でした。
つまり、アンティオキアにおいて、異邦人伝道が本格的に始まったということです。そして、それを推進したのは名もないクリスチャンたちでした。彼らはキプロス島やキレネからエルサレムに移住し、そこで福音を受け入れてクリスチャンとなったギリシア語を話すユダヤ人でしたが、ステファノの殉教をきっかけに、他の仲間とともにエルサレムから散らされていった人々でした。
彼らのお陰で、いえ、主の御手が彼らとともにあったので、多くの数の人々が主に立ち返ったと聖書は記します。
さて、ここからが大切な点ですが、この様子を耳にしたエルサレムの教会は、さっそくバルナバをアンティオキアに派遣します。伝道の成果が現れた場所に、エルサレム教会から人を遣わすのは、これが初めてではありません。フィリポがサマリア人に伝道し、その成果が現れた時もそうでした。その伝道の成果が確かなものであるのか、いいかえれば、エルサレムの教会と同じ信仰、同じ聖霊によって生まれた群れであるのかどうか、そのことが確かめられたということです。
使徒言行録には、バルナバがアンティオキアに行って具体的に何をしたのか、ということは「固い決意をもって主から離れることのないようにと、皆に勧めた」ということ以外には記していません。しかし、バルナバを選んで遣わした理由を、彼が「聖霊と信仰とに満ちていたからである」としるしていることからもわかる通り、霊的な一致と信仰的な一致を見極める力をもって、彼らを育てたことは十分に想像できます。
それからバルナバは、しばらく話の舞台から姿を消していたサウロ(パウロ)をタルソスまで探しに行き、アンティオキアまで連れてきます。この二人はまる一年間、アンティオキアの教会にとどまって、教えの務めを果たします。このアンティオキアの教会はこのあと、さらなる異邦人伝道を推進する中心的な教会となりますが、それはただ主を信じる異邦人の数が多くなったからというだけではありません。バルナバとパウロによって非常によく教えられ、訓練を受けたからにほかなりません。
アンティオキアの教会については、エルサレム教会と肩を並べうる初の異邦人教会であるとか、あるいは使徒言行録自身が記しているように、はじめて「キリスト者」という名前で周りの人々から呼ばれる教会であるとか、様々な特筆すべき特徴を持った教会ですが、しかし、それ以上に見落としてはならないことは、彼らが指導者たちの教えと訓練を従順に受けたということです。こうして霊的な一致と信仰的な一致が育てらたからこそ、大きな働きを担う教会として豊かに用いられたのです。