2012年9月27日(木)わけ隔てのない神(使徒10:34-43)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 きょうこれから取り上げようとしている個所は、異邦人を対象とした説教です。使徒言行録の中では、異邦人向けの説教が記録されているのは、この個所が初めてです。
 もっともペトロを呼びにいった百人隊長のコルネリウスは、割礼こそ受けてはいませんでしたが、ユダヤ人の信じる神を畏れ敬う人でした(使徒10:2)。そう言う意味では、まったく聖書を知らない人ではありませんから、ペトロの話は決して初心者向けの伝道説教というわけではありません。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書使徒言行録 10章34節〜43節までです。ほんとうは24節からお読みしたいのですが、時間の関係で34節からお読みいたします。

 そこで、ペトロは口を開きこう言った。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。神がイエス・キリストによって…この方こそ、すべての人の主です…平和を告げ知らせて、イスラエルの子らに送ってくださった御言葉を、あなたがたはご存じでしょう。ヨハネが洗礼を宣べ伝えた後に、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事です。つまり、ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神が御一緒だったからです。わたしたちは、イエスがユダヤ人の住む地方、特にエルサレムでなさったことすべての証人です。人々はイエスを木にかけて殺してしまいましたが、神はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前に現してくださいました。しかし、それは民全体に対してではなく、前もって神に選ばれた証人、つまり、イエスが死者の中から復活した後、御一緒に食事をしたわたしたちに対してです。そしてイエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました。また預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています。」

 先週はペトロが見た幻のことを取り上げました。その幻は異邦人をも救いに加えようとされている神の御心を示す幻でした。

 コルネリウスのもとから遣わされた三人の使いは、ペトロのもとで一晩過ごした後、ペトロを伴って翌日コルネリウスのもとに戻ります。このときペトロとともにいた仲間のクリスチャンたちも何人か一緒に向かいました。使徒言行録11章12節によればその仲間の数は六名でした。ですからペトロを含めて総勢十名の一団がヤッファからコルネリウスのいるカイサリアへと向かったことになります。

 一方、コルネリウスは、親類や親しい友人を大勢呼び集めてペトロの到着を待っていました。到着したペトロと迎えるコルネリウスの間で交わされた一通りのやり取りの後、コルネリウスがこうペトロに言いました。

 「今わたしたちは皆、主があなたにお命じになったことを残らず聞こうとして、神の前にいるのです」

 この言葉に促されて、ペトロは集まった異邦人たちを前にして福音を語ります。それが先ほどお読みした聖書の個所です。そして、異邦人に語られた説教として記録されたものとしては、これが最初の記録です。もちろん、一字一句漏らさない口述筆記の記録なのか、要点だけを書きとどめたものなのか、定かではありませんが、ペトロがコルネリウスたちに伝えようとした内容は、ここに記されているとおりです。

 この説教は、まずペトロの告白の言葉から始まります。

 「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました」

 これは、今の時代でこそ当たり前の言葉のように聞こえますが、しかし、ペトロがそう告白するには相当な躊躇や思案が、ここに至るまでの間にあったはずです。神がお命じになったから、すんなりとそれに応じたというわけでは決してありません。
 そもそも、あの幻を見て、ペトロは初めて異邦人の問題について考えるようになったのではないはずです。すでに、サマリア人が福音を受け入れ、エチオピアの宦官が洗礼を受けるようになった時点で、異邦人とどう関わるべきかは、すでにペトロの頭の中に問題意識としてあったはずです。前回ペトロが見た幻の中でも、ペトロはまだこの問題についてのはっきりとした結論を出しかねていたようです。汚れた食べ物を一切拒絶しようとしたペトロの態度がそれを示しています。

 しかし、あの幻を通し、またこのたびの異邦人コルネリウスからの招きを通して、ペトロははっきりと確信を抱くようになりました。その確信を開口一番ペトロは語っています。

 「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました」

 それは言いかえれば、「どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです」という確信です。ペトロにとっては、もはやこのことを拒むことができないほどに、明白なことがらでした。前回も触れましたが、ペトロが見た幻は食べ物についての清さと汚れの問題でした。しかし、ペトロは食べ物についての規定のことではなく、食事にともにあずかる異邦人の清さ、救いにともにあずかる異邦人の清さの問題として、神からこの確信を与えられたのです。

 それにしても、ペトロは何をどう考えて、そういう確信に至ったのでしょうか。ペトロは続けてイエス・キリストのことを語り始めます。その時ペトロはイエス・キリストについて語る際に、「この方こそ、すべての人の主です」と付け加えます。「イエスは主である」という告白はすでにペトロの中でしっかりとした信仰告白になっていたことは疑いようもありません。しかし、その主とは、ペトロ個人の主でもなければ、イエスを信じるユダヤ人たちの主でもありません。ペトロの中では、イエスはすべての人の主なのです。
 すべての人の主ということは、このお方が最初に遣わされたのは、なるほどユダヤ人の住む地方であり、エルサレムの都で最も大きなみ業を成し遂げたということにもかかわらず、すべての人にも関わる事柄なのです。復活された主は、やがて生きた者と死んだ者との審判者として来たりたもうお方です。それは、ユダヤ人だけの審判者として立てられたわけではありません。全世界の、すべての人の審判者として、復活の主イエス・キリストは立てられたのです。
 そのことは裏を返せば、「この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる」ということにほかなりません。全世界を支配したもう主であり、全人類を裁きたもう主であるお方は、同時にすべての人の救い主でもあられるのです。