2012年9月20日(木)神が清めたのだから(使徒10:9-23a)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 長年の伝統や習慣を変えるということほど難しいことはありません。特に宗教界では伝統は権威と結びついていますから、伝統を簡単に変えることはできません。しかし、もしキリスト教会がユダヤ教の伝統と習慣にとどまり続けていたとしたら、世界宗教にはなりえなかったことでしょう。そこから脱却する大きなきっかけとなった出来事をきょうは学ぶことにします。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書使徒言行録 10章9節〜23a節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 翌日、この三人が旅をしてヤッファの町に近づいたころ、ペトロは祈るため屋上に上がった。昼の十二時ごろである。彼は空腹を覚え、何か食べたいと思った。人々が食事の準備をしているうちに、ペトロは我を忘れたようになり、天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、地上に下りて来るのを見た。その中には、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていた。そして、「ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい」と言う声がした。しかし、ペトロは言った。「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません。」すると、また声が聞こえてきた。「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」こういうことが三度あり、その入れ物は急に天に引き上げられた。
 ペトロが、今見た幻はいったい何だろうかと、ひとりで思案に暮れていると、コルネリウスから差し向けられた人々が、シモンの家を探し当てて門口に立ち、声をかけて、「ペトロと呼ばれるシモンという方が、ここに泊まっておられますか」と尋ねた。ペトロがなおも幻について考え込んでいると、”霊”がこう言った。「三人の者があなたを探しに来ている。立って下に行き、ためらわないで一緒に出発しなさい。わたしがあの者たちをよこしたのだ。」ペトロは、その人々のところへ降りて行って、「あなたがたが探しているのは、このわたしです。どうして、ここへ来られたのですか」と言った。すると、彼らは言った。「百人隊長のコルネリウスは、正しい人で神を畏れ、すべてのユダヤ人に評判の良い人ですが、あなたを家に招いて話を聞くようにと、聖なる天使からお告げを受けたのです。」それで、ペトロはその人たちを迎え入れ、泊まらせた。

 先週は百人隊長コルネリウスのことを学びましたが、今週はこのコルネリウスが派遣した三名の使いが向かう先であるペトロに起こった出来事を取り上げます。神は御計画を実現するためにコルネリウスを用いられましたが、そのコルネリウスが呼びに行ったペトロにも、神はこれから起こそうとしていることのために、特別な準備をされました。それはペトロにこれからなそうとしていることの意味を理解させるために、一つの幻をお見せになったということです。

 人間の目から見れば、コルネリウスとペトロにはこれまで何の接点もありません。それぞれ別のところに暮らしていた赤の他人同士です。しかも、ユダヤ人と異邦人という組み合わせから考えると、この二人が出会って何かを始めるなどということは、人間的な頭で考えるなら、ほとんどあり得ないことです。
 しかも、ペトロがその時見た幻が、これから先のことを暗示しているなどとは、誰にも予想がつかない話です。これがただ単に、空腹のときに夢うつつになって見た夢の話にすぎないというなら、空腹のあまり何でも食べたいと思う人間の潜在意識が、夢になって現れた話ということで片づけられてしまうでしょう。
 しかし、これらすべてのことは、つまり、ペトロがコルネリウスに呼ばれることも、またペトロが不思議な幻を見たことも、すべて神がこれからなそうとしていることの準備だったのです。

 ペトロが見たという幻は、実は、これが単なるうたた寝の最中に見た夢なのか、それとも特殊な状況で示された幻なのか、読んでいる翻訳聖書によって受ける印象が違います。わたし自身は口語訳聖書になじんできましたから、この話はずっとうたた寝の時に見た夢だとばかり思っていました。新改訳聖書に馴染んできた人も同じ印象を持っていることだと思います。しかし、新共同訳聖書では、ペトロはお腹が空いて祈りながら寝込んでしまったのではなく、我を忘れたようになった状態で幻を見たのです。この我を忘れたような状態とは、いわゆるトランス状態、エクスタシーのことです。いずれにしても、ペトロが見たことは、ペトロの潜在意識の反映ではなく、神ご自身からの啓示でした。

 さて、その幻の内容は、とても奇妙なものでした。四隅をつるされた大きな布のようなものが天から降ってくるというものでした。それだけならばまだしも、その中にはユダヤ人であるなら食べてはならない、モーセの律法によって食べることが禁じられたものがたくさん入っていました。それだけでも目をそむけたくなるような映像ですが、さらに信じられないことに、天からの声は「ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい」と告げます。それを拒むペトロに「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」とダメ押しされます。しかも、同じことが三度も繰り返されますから、ペトロはこの幻から心を背けることができません。しかし、神はこれ以上、この幻の意味を解き明かすでもなく、ただペトロ自身にこの啓示の意味を考えさせます。とそこへ、コルネリウスが遣わした三名の使いが到着します。

 この幻の意味について、ペトロ自身が理解したことは、後にこう記されています。

 「あなたがたもご存じのとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています。けれども、神はわたしに、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないと、お示しになりました。」(使徒10:28)

 ペトロはさらりと言いのけていますが、神がお示しになったのは、あくまでも律法で禁じられた食べ物を神がペトロに食べさせようとする幻です。見聞きしたのはその幻の意味の解き明かしではありませんでした。しかし、ペトロはこの幻を単に食べ物に関する規定の問題としてだけではなく、異邦人を差別なく受け入れるべきことが、神の御心であると確信したのです。

 これはユダヤ人であるペトロにとっては、大きな意識の改革を伴う幻の理解です。確かに異邦人を受け入れるということは、異邦人の持っている習慣をどう取り扱うのか、という問題を含んでいます。そこには食べ物の問題も当然含まれます。さらには割礼の問題も避けて通ることはできません。異邦人世界では普通に行われている不品行の問題とも向き合わなくてはなりません。これらの問題すべてについての教会的な合意が出来上がるのは、使徒言行録15章に記された使徒たちの会議まで待たなくてはなりません。しかし、異邦人もまたキリストの救いの恵みにあずかることができるという確信がなければ、そもそもそうした問題とかかわる必要も生じなかったでしょう。いえ、先に食べ物の問題や割礼の問題を解決した後に、異邦人を受け入れるかどうかを考えていたのでは、決して教会は異邦人世界に福音を携えて入っていくことはできなかったことでしょう。ペトロの見た幻は確かに食べ物にかかわる幻でしたが、しかし、ペトロはそれを飛び越えて、異邦人そのものに心を留めるまでに信仰を高めたのでした。