2012年9月13日(木)百人隊長コルネリウス(使徒10:1-8)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 グローバル化という言葉を頻繁に耳にするようになったのは、ここ何年かのことだと記憶しています。特に産業経済界では企業のグローバル化というようなことがよく言われています。もちろん、環境問題のグローバル化というような使い方もあります。
 グローバル化という言葉とよく似た言葉に国際化という言葉もあります。国際化というのは、ひとつの国なり、ひとつの国にいる個人や団体が、他の国あるいは他の国にある個人や団体との開かれた関係を問題とするのに対して、グローバル化というのは国という単位で物事を考えるのではなく、地球規模あるいは世界規模で、一つの物事を捉える考え方です。
 そう言う意味で、一つの民族、一つの国という枠組みを最初から持たなかったキリスト教はもともとグローバルな宗教であると言うことができると思います。ただ、日本のキリスト教会が、グローバルな考え方をもっているかというと、たしかに国際的ではあるかもしれませんが、使徒時代のキリスト教会と比べてグローバルな視点を失っているように思います。その点を残念に思います。

 さて、きょう取り上げようとしている個所には、キリスト教会がまさにグローバル化していくきっかけとなる出来事が記されています。きょうはその出だしの部分だけをまず取り上げたいと思います。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書使徒言行録 10章1節〜8節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 さて、カイサリアにコルネリウスという人がいた。「イタリア隊」と呼ばれる部隊の百人隊長で、信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた。ある日の午後三時ごろ、コルネリウスは、神の天使が入って来て「コルネリウス」と呼びかけるのを、幻ではっきりと見た。彼は天使を見つめていたが、怖くなって、「主よ、何でしょうか」と言った。すると、天使は言った。「あなたの祈りと施しは、神の前に届き、覚えられた。今、ヤッファへ人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。その人は、革なめし職人シモンという人の客になっている。シモンの家は海岸にある。」天使がこう話して立ち去ると、コルネリウスは二人の召し使いと、側近の部下で信仰心のあつい一人の兵士とを呼び、すべてのことを話してヤッファに送った。

 前回はペトロの行った二つの奇跡を取り上げました。場所はエルサレムから北西にあるリダという町と、そこからもう少し先、地中海沿岸にあるヤッファという町での出来事でした。ペトロはヤッファに住む皮なめし職人シモンという人の家に滞在した、というところで前回の話が終わっていました。
 前回は特に触れませんでしたが、実は皮なめし職人というのは、当時のユダヤ人たちの間ではいやしい職業と考えられていました。動物の死骸を扱うところから、どうしても宗教的に汚れているというイメージで見られていたからでしょう。そういう仕事を生業としている人の家にあえて滞在したということが、異邦人世界への伝道の道を切り開くことを容易にしていたのかもしれません。もしも、ペトロが皮なめし職人を忌み嫌い、同じような理由で異邦人を汚れたものをして受け入れない態度に凝り固まっていたとしたら、キリスト教会はいつまでたってもユダヤ人の枠組みを越えることはできなかったでしょう。

 さて、使徒言行録10章全体が異邦人伝道を扱った画期的な出来事ですが、先ほどお読みしたのは、その導入の部分です。そこにはコルネリウスという名前の百卒長が登場します。

 彼はペトロが滞在しているヤッファよりもさらに北へ六十キロほど上ったカイサリアに駐留するローマ軍の兵士でした。その信仰について、「信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた」と記されています。このことは、ルカによる福音書7章に登場するもうひとりの百卒長のことを思い出させます。ただルカ福音書に登場した百卒長に関しては、ユダヤ人もその業績を賞賛するほどの立派な人物で、自ら会堂を立てるほどの人でした。
 それに対して、ここに登場するコルネリウスに関しては、具体的な業績が記されているわけではありません。もちろん、「民に多くの施しをし」とありますから、その業績は計り知れないものがあったことは間違いありません。しかし、ここではその業績がこれからおころうとしていることと深く結び付いているわけではありません。コルネリウスに現れた天使はひとこと「あなたの祈りと施しは、神の前に届き、覚えられた」と述べるにとどまるだけです。
 むしろ、きょうの話の中でのコルネリウスは主体的な行動をとる人、というよりも、天使が告げるがままに受け身的に行動をとる人物として描かれています。
 もちろん、そのとき自分自身に何が起ころうとしているのか、そのことも知る由もありません。従順な一人の信仰者として、神のお告げになることに従う姿が描かれています。そう言う意味では、使徒言行録が述べているとおり、コルネリウスは信仰心のあつい人でした。

 ところで、「一家そろって」という言葉に示されているところから、この時のコルネリウスは既に現役を退いていたと、多くの学者は考えているようです。もしそうであるとすれば、コルネリウスにとっては人生の残りを家族と共に穏やかに過ごしていた時代の出来事であったということになります。彼は「信仰心があつい」と言われているように、ユダヤ教の会堂に参加する、いわゆる神を畏れる異邦人でした。そう言う意味では、すでに多神教のローマの宗教からは解放されていたということができるかも知れません。しかし、神がイスラエルを通して成し遂げようとして来られた真の救い主イエス・キリストとの出会いを、まだ経験していない人物でした。

 事件はある日の午後三時、「コルネリウス」と呼びかける天使の幻で始まります。午後の三時というのは、ユダヤ人にとって祈りの時間でした。
 神の天使がなすべきことを告げるという話は、既にパウロのために用意されたアナニアも同じように神の使いの幻を見ました。使徒言行録の中では、この神が遣わす者の幻という場面は、いつも重要な出来事の契機となっています。現代の私たちにとっては、幻で見たということほど覚束ないものはありません。しかし、使徒言行録は幻をおぼろげで覚束ないものとしてではなく、むしろ、神がことを起こそうと既にお決めになっていたことを、人間に特別に知らせる確かな手段として、幻を描いています。つまり、これから展開する一連の出来事は、決して人間の側から出てきたことではなく、神がそのようにお決めになったことなのです。
 主なる神は、異邦人の救いを初めから御計画し、今、まさに時が満ちて、ことを起こそうとして、コルネリウスをペトロのところに遣わそうとされたのです。

 ペトロがだれであるかということを、コルネリウスが知らなかったはずはないでしょう。しかし、熟知していたとは思われません。おそらくはこれまで面識もなかったでしょう。しかし、コルネリウスは人間的な関心からではなく、従順な信仰者として、主の使いが告げるとおりに行動します。

 次回はこれから向かうペトロのところで起こった出来事について取り上げます。異邦人への福音の広がりが、どのようにして可能となったのか、引き続き学びたいと思います。