2012年8月30日(木)変えられたサウロ(使徒9:19b-31)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
パウロは自分のことを手紙の中で「わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者」(1コリント15:9)と言ったり、「わたしは、その罪人の中で最たる者です」(1テモテ1:15)と述べたりしています。これは単なるパウロの謙遜さというよりは、慈しみ深い神の御前で自分を正直に表現しているのだと思います。
パウロのような劇的な回心を経験するという人は少ないかもしれませんが、しかし、神の恵みによって変えられた経験はクリスチャンである誰もが持っていると思います。
今回も回心したばかりのパウロ(サウロ)に目を留めていくことにします。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書使徒言行録 9章19節後半〜31節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちと一緒にいて、すぐあちこちの会堂で、「この人こそ神の子である」と、イエスのことを宣べ伝えた。これを聞いた人々は皆、非常に驚いて言った。「あれは、エルサレムでこの名を呼び求める者たちを滅ぼしていた男ではないか。また、ここへやって来たのも、彼らを縛り上げ、祭司長たちのところへ連行するためではなかったか。」しかし、サウロはますます力を得て、イエスがメシアであることを論証し、ダマスコに住んでいるユダヤ人をうろたえさせた。
かなりの日数がたって、ユダヤ人はサウロを殺そうとたくらんだが、この陰謀はサウロの知るところとなった。しかし、ユダヤ人は彼を殺そうと、昼も夜も町の門で見張っていた。そこで、サウロの弟子たちは、夜の間に彼を連れ出し、篭に乗せて町の城壁づたいにつり降ろした。
サウロはエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だとは信じないで恐れた。しかしバルナバは、サウロを連れて使徒たちのところへ案内し、サウロが旅の途中で主に出会い、主に語りかけられ、ダマスコでイエスの名によって大胆に宣教した次第を説明した。それで、サウロはエルサレムで使徒たちと自由に行き来し、主の名によって恐れずに教えるようになった。また、ギリシア語を話すユダヤ人と語り、議論もしたが、彼らはサウロを殺そうとねらっていた。それを知った兄弟たちは、サウロを連れてカイサリアに下り、そこからタルソスへ出発させた。
こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった。
パウロの生涯の中で、回心してからエルサレムの使徒たちに会うまでの間に、一体何が起こったのか、相いれないような史料が二つあります。一つはきょう取り上げた使徒言行録に記されている話で、もう一つは、パウロ自身がガラテヤの信徒に宛てた手紙の中で記している事柄です(ガラテヤ1:15-21)。
ガラテヤの信徒への手紙には、回心したパウロは、誰にも相談することなくダマスコからすぐアラビアに退いたとあります。また、エルサレムには三年後に行きますが、訪問したのは使徒たちの内でただペトロと主の兄弟ヤコブだけであったと書いています。しかも、「わたしがこのように書いていることは、神の御前で断言しますが、うそをついているのではありません」と念を入れています。
史料の古さという点から言っても、本人が直接書いたものという点から言っても、ガラテヤの信徒への手紙に記されていることの方が信憑性があるように思われがちです。
もっとも、人が書くものというのは、目的や動機によって、何を省略して何を詳しく書くか、ということが決まってくるものです。二つの記事は一見相いれないように見えますが、二つを重ね合わせて並べた時に、まったく両立し得ない二つの出来事ではありません。ガラテヤの信徒への手紙でパウロが記していることは、使徒言行録の執筆の意図から言えば、それほど重要ではなかったのでしょう。
使徒言行録はすぐにもダマスコで福音の宣教を始めるパウロの姿を描きます。かつては神の教会を迫害する者が、今は神によって召された宣教者となった、ということを前面に押し出して書こうとする使徒言行録にとっては、回心直後のパウロの足取りを詳しく書き記す必要はなかったということでしょう。
使徒言行録は、他の使徒たちとは違った仕方で神から召されたパウロが、大胆にイエスが神の子であり、メシアであることを語る様子を描きます。そして、そうしたパウロの態度の急変に戸惑いを覚えながらも、ついには迫害者であったパウロを迫害するにまで至るユダヤ人たちの姿を描きます。
もはやダマスコの町で宣教活動を続けるには危険を感じるほどに、事態はパウロにとって深刻なものとなって行きました。先ほどのガラテヤの信徒への手紙の中では、そうした事情は一切触れらておらず、ダマスコに戻ったパウロは何事もなかったかのように三年後エルサレムにペトロを訪ねたとだけ記します。
しかし、パウロの書いた別の手紙には、ダマスコで体験した苦しみがこう記されています。
「ダマスコでアレタ王の代官が、わたしを捕らえようとして、ダマスコの人たちの町を見張っていたとき、わたしは、窓から篭で城壁づたいにつり降ろされて、彼の手を逃れたのでした」(2コリント11:32-33)。
パウロの宣教活動がダマスコの町にもたらした影響は、もはやユダヤ人社会だけの問題ではなく、王の干渉を受けるほどに社会に対して影響を及ぼしていたということでしょう。
さて、ダマスコの町からの逃亡を手助けしたのは、「サウロの弟子たち」であったと記されています。さりげない言葉ですが、すでにパウロの宣教活動を通して、パウロと深く結び付く弟子たちが生まれていたということです。パウロを通してキリスト教に改宗する者たちが確実に現れ始めていたのですから、ユダヤ教に留まっているユダヤ人たちにとっては、いっそうパウロの存在は脅威であったはずです。
「昼も夜も町の門で見張っていた」(使徒9:24)「アレタ王の代官が、わたしを捕らえようとして、…町を見張っていた」(2コリント11:32)という状況の中で、夜中に城壁から篭でつりおろされて町を出たというのは、パウロにとってはまさに命からがらの脱出です。
逃れて行ったエルサレムでも安らかな暮らしが待っていたわけではありません。
かつては教会の迫害者であった者をエルサレムの教会がやすやすと受け入れるはずがありません。バルナバの仲介でやっと使徒たちの間にも行き来ができるようになりました。しかし、パウロ自身がかつて殺害することに賛成していたステファノがそうであったように、今度はパウロ自身がギリシア語を話すユダヤ人との議論で命を狙われるようになります。こうして、パウロは自分の生れ故郷であるタルソスにまで逃れていくことになります。しかし、使徒言行録はこの一連の出来事を決して悲観的な言葉では結びません。
「こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった。」
このパウロが経験した主のための苦しみも、教会の発展のために主によって豊かに用いられていたのでした。