2012年8月16日(木)サウロの召命と回心(使徒9:1-9)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 周りの人たちにキリスト教を伝えるとき、強い反対に出くわすと一瞬ひるんでしまいます。しかし、あとになって、かえってそういう強い反対の態度をとる人ほど、熱心なキリスト者に変えられるという経験をすることがあります。
 もちろん、そういう人が必ず回心するという法則があるわけではありません。客観的に統計を取ってみれば、最後まで強い反対の態度を貫く人の方が多いのかもしれません。
 しかし、強い反対にあった時、教会が望みを捨てずに福音を語り続けるのは、聖書に励ましとなるような前例があるからです。それは新約聖書におさめられている手紙のほとんどを書いたパウロ自身が、かつてはキリスト教会の最大の迫害者であったということを知っているからです。みんながみんなパウロのように劇的な回心をして、熱心な伝道者に変えられるわけではないにしても、それでも、岩のように硬い頑なな心も、神には変える力があることを前例によって知っているからです。
 さて、きょうはそのパウロが劇的な回心をした出来事を使徒言行録から取り上げることにします。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書使徒言行録 9章1節〜9節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていた。サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。

 きょう登場するサウロは、のちにパウロという名前で登場する人物です。この使徒言行録にとっては、サウロこそ、もっとも焦点をあててその生涯の働きを記している人物です。
 もちろんサウロの名前が使徒言行録に出てくるのはきょうが初めてではありません。しかし、これまでは小出しにしか、名前が出てきませんでした。最初に登場するのは、ステファノが人々によって処刑される場面で、まったくの脇役のように、上着を番する若者として名前が記されています(使徒7:58)。
 しかし、そのすぐあとで、この若者であるサウロは、ステファノ殺害に賛成していた人物であったことが明らかにされます(8:1)。しかも、ステファノが処刑されたあとは、キリスト教会を徹底して迫害した人物であったことが記されます(8:3)。

 ここで、使徒言行録は、いったん迫害によって散らされた人たちに目を留め、彼らがいく先々で福音を語り広めた様子を伝えます。特にフィリポの働きによって、福音はサマリア人とエチオピアの高官にまで広がったことが報告されています。
 きょう取り上げた個所で、再びサウロの名前が登場し、この人物に起こったことを使徒言行録は語ります。

 迫害によって散らされた人々は、エルサレムを離れても福音を語り続けましたが、サウロもまたエルサレムでの迫害に飽き足らず、ダマスコにまで迫害の手を伸ばそうと、ますます意気込みます。
 ここへ至っては、サウロは迫害の主体となって、迫害を正当化する書状を手に入れようと大祭司にかけあうようになります。ステファノの殉教の時には、その処刑に賛成する一人でしかなかったサウロでしたが、今では大祭司に働きかけて、迫害を拡大させる中心的な担い手となっているのです。

 さて、迫害の手を伸ばすために、ダマスコに向かう途中に出来事は起こりました。

 「ダマスコ途上のパウロの回心」として知られる、パウロの有名な回心の場面ですが、この個所を含めて、使徒言行録の中には三度、この出来事が記されます。他の二つは、パウロ自身が自分の回心を回想して語る場面です(22:6以下、26:12以下)。三つの記述は細かな点では違いもありますが、しかし、事件の核となる部分には違いがありません。

 ダマスコに行く途上で、天からの強い光に照らされて、地面に倒れたこと。「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」というイエスの声を聞いたこと。そして、サウロがなすべき使命があることを告げられたことです。

 まず、この出来事は「パウロの回心」としばしば呼ばれていますが、しかし、パウロ(サウロ)の心の内面についてはまったく触れられていません。これは後にパウロ自身がその時の出来事を語る場面でも、自分の内面の変化を語ることはありません。客観的な出来事だけが淡々と記されています。もちろん、これだけのことを体験して、パウロが何も感じず、何も思わなかったはずはありません。
 パウロは後にフィリピの信徒に宛てた手紙の中で、「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています」(フィリピ)とさえ書いているほどですから、ファリサイ派のユダヤ教徒であったパウロがイエス・キリストと出会い、その素晴らしさを確信するようになるまでの心の動きはとても大きなものであったことは疑いようもありません。しかし、それにもかかわらず、使徒言行録はこの出来事を一人の人物の心の変化として描かず、イエス・キリストが主体となって、一人の人を召しだし、回心へと導いた出来事として報告しています。

 イエス・キリストはサウロに「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と問いかけます。ちなみに、26章14節には、「ヘブライ語で語りかけるのを聞いた」とあります。呼びかけの言葉を記す使徒言行録は、わざわざ「サウロ」というギリシア語化した名前ではなく、「サウル」というヘブライ語を音訳したそのままの名前で記しています。

 さて、この問いかけはサウロにとっては不可解なものであったはずです。というのは、サウロが迫害してきたのはイエス本人ではなく、イエスの教えに追随する信奉者たちだったからです。それにもかかわらず、声の主であるイエスは、あたかも弟子たちによって構成される教会がキリストご自身であるかのように、「なぜわたしを迫害するのか」と問いかけています。この問いかけは、まぎれもなくキリストと教会との一体的な結びつきを明らかにしています。
 この時のサウロには、その深い意味を理解することがどれほどできたかは分かりませんが、後にパウロはキリストとキリスト者の結びつきを、その手紙の中で何度も強調しています。

 ところで、使徒言行録は今まで、サマリア人の回心、エチオピアの高官の回心を描いてきました。しかし、サウロの場合は、迫害者の回心というだけにとどまりません。サウロを特別な働きに召しだそうとする神の業としても描かれています。ここでは、その特別な働きが何であるのかはまだ明らかにされていません。しかし、神はこのサウロを通して異邦人への福音宣教を推し進めようと準備しておられたのです。