2012年7月19日(木)ステファノの弁明と殉教(使徒7:51-60)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
ペトロはその手紙の中で「あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい」(1ペトロ3:15)と述べています。しかし、そのような備えが十分にできている人というのは少ないと思います。十分すぎるくらい備えたとしても、それでも、相手がどんな観点や関心から聞いてくるのかによっては、答え方も、答えの範囲も違ってくるからです。むしろ、説明を求めてくる人に数多く出会い、説明を繰り返す中で、何をどう語るべきかが見えてくるものです。キリスト教会も様々な人々からの攻撃を受けて、自分たちが何をどう語るべきかが、だんだんと明らかになっていきました。きょうは殉教の死に至ったステファノの弁明から学びたいと思います。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書使徒言行録 7章51節〜60節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
「かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち、あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖が逆らったように、あなたがたもそうしているのです。いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、一人でもいたでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを預言した人々を殺しました。そして今や、あなたがたがその方を裏切る者、殺す者となった。天使たちを通して律法を受けた者なのに、それを守りませんでした。」
人々はこれを聞いて激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりした。ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、都の外に引きずり出して石を投げ始めた。証人たちは、自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いた。人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言った。それから、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。
今お読みした個所は、ステファノによる弁明の結論部分と、そのステファノが殉教の死を遂げて、命をおとす様子を描いた場面でした。
ほんとうはステファノの弁明の説教を全部お読みしたかったのですが、それだけで番組の半分以上の時間を取ってしまうので、割愛させていただきました。
前回学んだ通り、ステファノは捕らえられて、ユダヤ最高法院に引いて行かれます。そこで、訴えが本当であるのか、大祭司から弁明が求められました。使徒言行録の7章には、大祭司によって弁明するようにと促がされたステファノが、とうとうと弁明の言葉を語る姿が描かれています。その内容は聖書に記されたイスラエル民族の歴史の要約といってよい内容です。アブラハムの話から歴史を説き起こし、ヨセフの話、モーセの話と進んで、一方ではイスラエルの民の背信と頑なさが描かれ、他方では幕屋と神殿の話が織り込まれています。
このステファノの説教が、人々の訴えに対してどのように弁明となるのかは、一度読んだだけでは分かりにくいかもしれません。実際、その話の大半は旧約聖書に描かれているイスラエルの歴史の要約のように見えるからです。
アブラハムの召命と割礼の話からステファノが語り始めたのは、神がアブラハムと結んだ契約の正当な継承者が誰であるのか、ということを論点としていたからでしょう。ステファノはイスラエルの歴史の中でいつも神に逆らうイスラエル民族の姿を描いて、アブラハムへの約束を成就するイエス・キリストに逆らうユダヤ人たちの姿と重ねています。ヨセフを苦しめ、モーセに逆らい、歴史を通じて聖霊に逆らってきたイスラエルの民は、ついには神から遣わされたメシアをも苦しめたのです。
確かにステファノの説教の中には一言もメシアについて触れる個所はありません。また、ナザレのイエスがメシアであると明言する個所もありません。しかし、52節で「彼らは、正しい方が来られることを預言した人々を殺しました。そして今や、あなたがたがその方を裏切る者、殺す者となった」と言われているとおり、イエス・キリストこそが預言者を通して約束された正しい方であり、その方こそがアブラハムに約束されたことを成就するお方であることを言外に匂わせています。
そのことを一方で語りながら、荒れ野を旅していたころの「証しの幕屋」に触れて、やがては幕屋に代わってソロモンの時代には神殿が建てられたことに言及します。ここで、ステファノが強調していることは、その神殿は人の手で造ったものであり、そこには神は住むことができないという真理です。そのことは、神殿が象徴的な建物にすぎないということを示しています。幕屋から神殿へと神の住まいは象徴を変え、今や、神がわたしたちと共にわたしたちの内に住んでいてくださることは、イエス・キリストによって象徴ではなく実現しています。もちろん、ステファノはそこまではっきりとは語りませんでしたが、真の意味での神殿とは何かを聞く者に問いかけていることは確かです。
ステファノを訴える者たちは、ステファノが神殿とモーセの律法をけなして、神を冒涜していると主張しましたが、訴える者たちこそ、神と律法に逆らい続け、神殿の存在意義を履き違えているのです。
こうしたステファノの論旨が、最高法院やそこに訴え出た人々を刺激し、激怒させたことは想像するに難くありません。使徒言行録は「人々はこれを聞いて激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりした」と描いています。
この怒りに燃えて興奮する人々とは対照的に、聖霊に満たされて天を見つめるステファノの姿を使徒言行録は描きます。ステファノは天を仰いでこう言います。
「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」
このステファノの言葉は二つの点で、際立っています。その一つは、イエス・キリストご自身以外に、「人の子」という呼び方を使っているのは、新約聖書の中でこの個所だけです。もう一つは、神の右に座しておられるキリストの姿は新約聖書に何度も描かれますが、神の右に立つキリストの姿はここだけです。
いずれにしても、この幻は、ステファノの弁明の正しさを神とそのメシアが擁護していることを物語っています。
しかし、それにもかかわらず、ステファノを訴える者たちは、心を頑なにしたまま、石を投げつけてステファノを殺してしまいます。
ここで少し思い出して欲しいのですが、ユダヤ人たちがイエス・キリストをピラトに訴え出た時、「自分たちには人を死刑にする権限がない」と言いました(ヨハネ18:31)。確かにユダヤ最高法院には人を死刑に処する権限がありませんでした。そうであればこそ、イエス・キリストを十字架刑にするためには、巧妙なやり方でピラトの手をかりなければいけなかったのです。
けれども、今回のステファノを処刑するやり方は、もはや法律にさえ則っていない暴動やリンチに近いものです。律法を守らない者たちであるというステファノの言葉の通りです。
しかし、その彼らに対してさえ、ステファノは執り成しの祈りを捧げます。
「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」