2012年6月7日(木)聖霊を欺く罪(使徒5:1-11)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
聖書を読んでいて気がつくことは、イエス・キリストを信じる者たちが「聖なる者」と呼ばれ(ローマ1:7、1コリント1:2)、その聖なる者たちが集まる教会が、キリストによって聖なるものとされているということです(エフェソ5:26-27)。また使徒信条の言葉も「聖なる公同の教会、聖徒の交わりを信ず」と述べています。
しかし、その半面、実際の教会の歴史を見てみると、既に使徒たちの時代でさえ、教会には「聖なる」と称するにはふさわしくない現実がありました(1コリント5:1)。イエス・キリストを通してこの世から召しだされ、神の御用のために聖なる者として特別にとり分けられたとはいえ、実質が完全に清くなっているというわけではありません。そのために、残念な事件が教会の中で起こるということは避けられません。
きょう取り上げる個所には、そうした残念な事件が隠されることなく描かれています。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書使徒言行録 5章1節〜11節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
ところが、アナニアという男は、妻のサフィラと相談して土地を売り、妻も承知のうえで、代金をごまかし、その一部を持って来て使徒たちの足もとに置いた。すると、ペトロは言った。「アナニア、なぜ、あなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、土地の代金をごまかしたのか。売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分の思いどおりになったのではないか。どうして、こんなことをする気になったのか。あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」この言葉を聞くと、アナニアは倒れて息が絶えた。そのことを耳にした人々は皆、非常に恐れた。若者たちが立ち上がって死体を包み、運び出して葬った。
それから三時間ほどたって、アナニアの妻がこの出来事を知らずに入って来た。ペトロは彼女に話しかけた。「あなたたちは、あの土地をこれこれの値段で売ったのか。言いなさい。」彼女は、「はい、その値段です」と言った。ペトロは言った。「二人で示し合わせて、主の霊を試すとは、何としたことか。見なさい。あなたの夫を葬りに行った人たちが、もう入り口まで来ている。今度はあなたを担ぎ出すだろう。」すると、彼女はたちまちペトロの足もとに倒れ、息が絶えた。青年たちは入って来て、彼女の死んでいるのを見ると、運び出し、夫のそばに葬った。教会全体とこれを聞いた人は皆、非常に恐れた。
先週取り上げた個所に、初代教会の姿がこんな風に描かれていました。
「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである」(使徒4:34-35)
そして、その代表的な人物としてキプロス島出身のバルナバを取り上げて紹介していました。もちろん、バルナバのほかにも、貧しい教会員のために自分の財産を処分した人はいたことでしょう。しかし、バルナバを代表として取り上げたのは、後にバルナバが果たす役割の重要性から考えて、あらかじめここに名前を紹介しておきたかったからでしょう。
さて、きょう取り上げた個所には、そのバルナバとは対照的な人物が描かれています。同じエルサレムの教会に属する夫婦でしたが、その心に抱いていた思いは、バルナバたちのものとは異なっていました。アナニアとサフィラ夫妻です。
この夫妻はバルナバと同じように、自分たちの土地を売ってその代金を使徒たちの足元に置きました。しかし、処分した土地の代金全額ではなく、一部だけを捧げたにすぎません。
もちろん、一部を捧げたということだけのことであれば、問題はなかったでしょう。資産を持ちながらまったく捧げないよりは、一部でも捧げたのであれば、それは決して非難されるようなことではありません。初代教会の人々が自分の資産を処分して分かち合ったのは、まったくの自発的な事柄であって、強制されての事柄ではありませんでした。全額を捧げることも、一部を捧げることも、誰からも強制されたり指図されたりしたのではありません。
実際、このことに関しては、ペトロもこう語っています。
「売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分の思いどおりになったのではないか」
このアナニアとサフィラ夫妻の問題点は、代金をごまかしたという点にあるのです。もちろん、他人の土地を売って代金をごまかしかすめたというのではありません。自分の土地を売った代金なのですから、そこからかすめ取る必要もなく、また、ペトロが語っているように、代金を思い通りに使ったとしても、とがめられるようなことをしたわけでもありません。
問題は、一部でしかないものをあたかも全部であるかのように捧げたところに問題があったのです。この夫妻は神の目を心にとめていたのではなく、明らかに、自分たちの行いが人の目に過大に評価されるようにとたくらんだのです。
どうしてそのような不正が発覚したのかは、使徒言行録には記されていません。アナニアの伏せ目がちでおどおどした態度からペトロは察したのかもしれません。あるいは、相場では考えられないほどの少ない金額を、全額だなどと主張したために、すぐに嘘が見破られてしまったのかもしれません。もちろん、ペトロには神からの特別な啓示があったということも否定はできません。いずれにしても、使徒言行録は、どのように嘘が発覚したのかということには関心がありません。
むしろ、関心は、彼らが行った偽りの行い、そのものに注がれています。
ペトロはアナニアに悔い改めや自発的罪の告白の機会を与えることもなく、いきなり、「アナニア、なぜ、あなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、土地の代金をごまかしたのか」と罪を指摘しています。
密かに犯した罪であるならば、まず二人だけのところで忠告するのが、イエス・キリストが教えてくださった原則です(マタイ18:15以下)。しかし、アナニアの罪は土地を売った本人と買った人だけが、正確な代金を知っていたというような秘密の罪ではなかったのかもしれません。ペトロが特殊な能力でそれを見破ったのでないとすれば、アナニアが捧げた代金は素人目にも不信を抱かせるようなものだったのかもしれません。もはや二人だけのところで忠告するような罪ではなく、公然と犯された罪であるために、あからさまにその罪を指摘したのかもしれません。
いずれにしても、ここで、ペトロが使っている言葉づかいに注意を払う必要があります。アナニアに対して、ペトロは「よくもわたしたちを欺いたな」などとは言いません。「聖霊を欺いた」とか「人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ」と述べています。罪によって被害を受けるのは人間であるかもしれませんが、しかし、罪というのは究極的には神に対する裏切り行為なのです。とくに聖霊の宿る宮であるクリスチャン一人一人にとっては、聖霊を欺く行為なのです。
アナニアとサフィラ夫妻は本当のクリスチャンではなかったなどと、簡単にこの物語を片づけてはいけません。「教会全体とこれを聞いた人は皆、非常に恐れた」という言葉に表されているとおり、恐れの心を抱くべきなのです。いえ、アナニアとサフィラ夫妻がしたように、神の恵みのうちにとどまることを忘れてしまってはいけないのです。