2012年4月12日(木)一つとなって(使徒2:42-47)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 キリスト教会の古い時代の信仰告白に「ニカイア信条」と呼ばれる簡潔な信仰告白があります。その告白文の中に「我は一つの聖なる公同の教会を信ず」とあります。実際に集まる集会は各地にたくさんあっても、キリストを頭とした体なる教会は一つです。主キリストにあって一致したただ一つの教会の姿は、エルサレムで始まった時には、目に見える実感しやすいものだったのに違いありません。
 しかし、福音が広がれば広がるほど、それがただの概念になってしまったというのでは決してありません。確かに肉の目ですべての教会の群れを見渡すことは不可能になりましたが、現代でも教会が一つであることを実感する機会はいろいろあるように思います。たとえば、大きな災害のときなど、教会のネットワークを通じた助け合いは、教会が一つであることを実感させてくれます。

 きょう取り上げる個所には、初代教会の一致した姿が生き生きと描かれています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書使徒言行録 2章42節〜47節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。

 前回に引き続いて、初代教会の人々の様子から学んでいます。前回は2章42節だけを取り上げましたので、今回は残りの43節以下を取り上げたいと思います。

 ところで、43節から新しい段落が始まるのか、それとも、42節から新しい段落なのか、あるいは44節からが新しい段落が始まるのか、という判断は難しいように思います。
 初代教会の信徒たちの様子を描いている、というくくりで考えると42節以下が一つのまとまりのように考えられます。しかし、43節の「すべての人に恐れが生じた」という唐突な始まり方は、42節と43節との間に何らかの隔たりがあることを感じさせます。
 また、後に出てくる5章12節では、使徒たちの手によって行われた多くのしるしと不思議な業は、信徒たちの心が一つであることへと自然に話がつながっていきます。同じようにここでも、使徒たちによって行われた不思議な業の話は、信徒たちが皆一つであることへとつながっていきます。そういう流れから考えると、43節からひとくくりの段落と考えた方がよさそうです。

 さて、先ほども言いましたが「すべての人に恐れが生じた」という文章は、唐突に始まるように感じられます。しかも、その場合の「すべての人」とは「教会に集まった人たちすべて」の意味なのか、それとも、教会のまわりの人たちも含めた「すべて」なのか、明瞭ではありません。また、それに続く文、「使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである」とのつながりもゆるいつながりです。二つの文は、使徒たちによって不思議な業が行われた結果、すべての人たちに恐れが生じた、と明瞭に語っているわけではありません。むしろ順番は逆で、畏れの念があり続けるところに、使徒たちの不思議な業としるしが行われ続けたとも取れなくはありません。

 もっとも、使徒言行録にたびたび登場する「不思議な業としるし」という表現は、まず第一にイエス・キリストに対して用いられ、イエス・キリストが神から遣わされた者であることを証明する働きでした(使徒2:22)。その同じ働きが、今度は使徒たちに受け継がれ、使徒たちによってたびたび「不思議な業としるし」が行われています(5:12、6:8、14:3、15:12)。それは、使徒たちが神から遣わされた者であることをあかしするしるしでした。それはすでに信じている者たちにたいするしるし、というよりは、これから信仰に入ろうとする者たちへのしるしであったということができます。そういう意味では、すべての人に生じた恐れは、使徒たちの行った不思議な業としるしの結果であったと理解する方が自然でしょう。

 さて、そのことに続いて、信徒たちが一つであることが繰り返し述べられます。このことは前回取り上げた「相互の交わりに熱心であった」ということと深いかかわりを持っています。44節にでてくる「皆一つになって」という表現は、47節の「一つにされた」という表現に繰り返されています。「一緒に」という意味にもとれますが、もともとは「同じものの上に」という意味です、つまり、同じ共通のものの上に立つわけですから、一つであるということができるわけです。もちろん、キリストを共通の土台として、教会はその上に建て上げられるものですから、教会が一つであることは自明のことです。しかし、使徒言行録が述べている、教会の信徒が皆一つであるという意味は、もっと具体的な事柄の中に現れています。

 その一つは、持ち物を共有にし、売り払ったものを必要に応じで分かち合ったということです。前回も触れましたが、「交わり」と訳されるギリシア語のコイノーニアには、あるものを共有する、分かち合うというニュアンスがあります。教会は具体的な分かち合いを通して、主イエス・キリストにある一致を表していたということです。
 ところで、ここで問題となるのは、初代教会の人々は、所有権や私物の所有ということをまったく放棄していたのか、ということです。その点に関しては、のちにアナニアとサフィラ夫婦の問題が起こります(使徒5:1-11)。この夫婦は自分の土地を売り払い、そのうちの一部の代金だけを全額であるかのように偽って捧げました。そのことが神を欺く行為として非難されています。
 しかし、この出来事を記した使徒言行録の5章を注意深く読むと、非難されているのは、代金の一部をごまかした行為であって、その土地を自分の手元に留めておくことも、売ることも、それ自体は自由であったように思われます。

 ペトロはアナニアに対して、こう述べています。

 「なぜ、あなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、土地の代金をごまかしたのか。売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分の思いどおりになったのではないか」

 ここを読む限り、持ち物を共有にしたり、売り払ったものを分かち合うのは、規則によって強要されるものではなく、あくまでも自発的な事柄であったようです。教会の一致が信徒の自発的な意志によって築かれるということは、今日の教会にとっても大切な点であるということができます。

 さて、信徒が皆一つであったということは、持ちものを共有し、分かちあったということだけにあるのではありません。「毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していた」ということの中に、もっとも鮮やかに現れています。心を一つにして神を礼拝するのでなければ、教会の一致も交わりも意味を失ってしまいます。教会の交わりが教会の一致を生み出しているのではなく、造り主であり救い主である神を第一とする共同体であるからこそ、交わりが生まれ、一致が生まれるのです。