2012年3月29日(木)悔い改めよ(使徒2:37-42)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
終戦後間もない頃の話です。本国に引き揚げていたアメリカのキリスト教の宣教師たちが、再び日本に戻り始めて、キリスト教が勢いを取り戻しつつあった頃のことです。どこの教会でも続々と洗礼を受ける者たちが現れたそうです。わたしの義理の父母も、ちょうどその頃、神戸の大きな教会で洗礼を受けたそうです。
その頃の様子を語って聞かせてくれますが、あまりにも洗礼を受ける人の数が多くて、ホースで水をかけた方が早いのではないかというくらい、人が多かったそうです。その時代から60年以上たった今の日本の教会では、ちょっと想像もできないことかと思います。
しかし、初代教会のペンテコステの日には、一日に三千人もの人が加わったと聖書にありますから、さらに大きな驚きです。この数字に疑問を抱く人もいるでしょうが、しかし、まことの神を求めたことがない日本人でさえあふれるほどに教会に集まった時代があったというのですから、もともと聖書に慣れ親しんでいたユダヤ人たちがキリストを信じるようになるのは、もっと簡単なような気もします。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書使徒言行録 2章37節〜42節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。
使徒言行録に記された五旬祭の日に起こった出来事から連続して学んでいます。前回は、十字架で死んで甦られたナザレのイエスこそ、神がお遣わしになったキリストであることを大胆に語るペトロの説教から学びました。
きょう取り上げるのは、そのペトロの話を聞いた人々の反応です。
聖書は人々の反応を「大いに心を打たれた」と記しています。この場合の「心を打たれた」というのは、「感動した」とか「感銘を受けた」という意味ではありません。むしろ、心を刺し貫かれるような痛みを覚えたということです。
「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」(2:36)と聞かされて、もし、それがほんとうであると信じるなら、心に痛みを感じない人はいないでしょう。人々が「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と切実な思いで言ったのも無理もないことです。このままでは、神に敵対する者として、容赦のない裁きを受けたとしても、当然のことだからです。
もちろん、ペトロの話を聞いた全員がそう思ったのかどうかはわかりません。中にはペトロの話を心の中であざけりながら聞いていた人もいたことでしょう。後に使徒言行録に記されている、エルサレムで起こった使徒たちに対する迫害の記事を読むと、おそらくはペトロの話を鼻持ちならないことと思いながら聞いていた人もいたはずです。
しかし、使徒言行録が今ここで目を留めているのは、反対する人たちのことではなく、ペトロの話を聞いて、心に痛みを感じた人たちの話です。これらの人々の中には、「イエスを十字架につけろ」とかつて叫んだ人たちもいたかもしれません。少なくともあの日の出来事をまだ昨日のことのように思い出すことができる人々も多かったことでしょう。心の痛みを感じて「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と尋ねる人たちに、ペトロは答えました。
「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。」
彼らが神に対して犯した罪は、自分で償うことができるものでは決してありません。そもそも、どんなに小さな罪であっても、神を満足させるような償いなど人間にはできるものではありません。人間にできることは、罪を悔い改めることと、赦しを乞うことだけです。その悔い改めさえ、悔いてはまた罪を犯してしまう弱い人間です。
しかし、そのことをご存じの上で、神は一人一人に罪を悔い改めることを求めています。また、神が人間に悔い改めを求める時には、同時に罪の豊かな赦しも約束されているのです。
そうして、ペトロは罪の赦しのための洗礼を、イエスの名によって受けることを勧めています。もちろん、この場合の洗礼を、三位一体の神の御名による洗礼とは区別された、イエスの名前だけによる洗礼と考える必要はないでしょう。ペトロが「イエスの名によって」と言ったのは、他にもある様々な沐浴や洗礼の儀式とは区別された、キリスト教の洗礼といった意味で「イエスの名」と言ったのでしょう。特にこの使徒言行録では、後に「ヨハネの洗礼」に対して「イエスの名による洗礼」という言い方がありますから(19:3-5)、やはり、ここでは、そういう類似の洗礼とは区別された洗礼という意味で、「イエスの名による洗礼」と言ったのだろうと考えられます。
さて、この洗礼には約束のことばが続いています。
「そうすれば、賜物として聖霊を受けます」
直訳すれば「聖霊の賜物」ですが、ここでは聖霊がもたらす様々な霊的な賜物をいただくという意味ではなく、聖霊そのものを賜物としていただくという意味です。そして、そのことこそ、この五旬祭の日に起こった出来事が意味するものなのです。
すでにペトロはヨエルの預言から引用して、この日の出来事の意味を解き明かしましたが、まさに、神はイエスをメシアと信じて、悔い改めを表し、洗礼を受ける者に対して、聖霊を賜ることを約束してくださっているのです。
ペトロはさらに言葉を次いで、こう述べます。
「この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」
まず第一にこの約束が、この世代に留まるものではないということです。彼らの子供にも、約束されているということです。文字通りにとれば、そこに集まっているイスラエル人の子孫ということに限定されてしまうかもしれません。
しかし、第二に、「遠くにいるすべての人にも」とつけ加えられています。もちろん、「遠くにいる離散したユダヤ人にも」と限定して考えることもできなくはありません。しかし、主イエス・キリストが約束なさったように、福音はエルサレムからはじまって地の果てにまで広がるものです。文字通りすべての民族が含まれていると考えるのが自然です。神が招いてくださるすべての人にこの約束はもたらされるのです。