2012年3月22日(木)十字架のイエスこそメシア(使徒2:22-36)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 死刑に処せられたあの人が、実は救い主であった、ということを語ったとしても、まともに取り上げてもらえそうもないことは目に見えています。まして、死者の中からの復活が、その人が神から選ばれた救い主であることを示す動かぬ証拠である、などと言い出したら、誰も相手にはしてくれそうもありません。これはまさに初代教会の人々が直面した問題でした。
 しかし、キリストの弟子たちは、ペンテコステの日以来、少しもためらうことなく大胆に、十字架刑に処せられ、死んで甦られたナザレのイエスこそ、神から遣わされた救い主メシアであることを証しし始めたのでした。
 きょうはキリスト教会最初のメッセージとも言うべき、ペトロの説教を取り上げてみたいと思います。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書使徒言行録 2章22節〜36節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 「イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。ダビデは、イエスについてこう言っています。
 『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、わたしは決して動揺しない。だから、わたしの心は楽しみ、舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、あなたの聖なる者を朽ち果てるままにしておかれない。あなたは、命に至る道をわたしに示し、御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。』
 兄弟たち、先祖ダビデについては、彼は死んで葬られ、その墓は今でもわたしたちのところにあると、はっきり言えます。ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました。そして、キリストの復活について前もって知り、
『彼は陰府に捨てておかれず、その体は朽ち果てることがない』
 と語りました。神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。ダビデは天に昇りませんでしたが、彼自身こう言っています。
 『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着け。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするときまで。」』
 だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」

 先週に引き続き、五旬祭の日に、集まる民衆を前に語ったペトロの説教から取り上げています。前回は、民衆たちが耳にして集まってきた激しい風の音と、また民衆たちが目撃したキリストの弟子たちの、一見酔っ払いのような姿が、いったい何を物語っているのか。そのことをペトロの説教から学びました。今自分たちが目撃している出来事の意味を知ることは、そこに居合わせた人たちにとって最大の関心事だったに違いありません。

 しかし、ペトロの話は、目の前の出来事を解説するだけで終わってしまうのではありませんでした。なぜなら、あらゆる人に聖霊が注がれる時代をもたらしたお方、イエス・キリストについて語るのでなければ、きょうのこの日の意味を理解することはできないからです。
 そこでペトロはこう切り出します。

 「イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。」

 この出だしの言葉に呼応して、ペトロは説教全体を次のように結論づけます。

 「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」

 では、ペトロは、ナザレのイエスが神から遣わされたメシアであることを、どのように論証したのでしょうか。

 まずペトロが指摘したことは、ナザレのイエスが行った奇跡と不思議な業としるしです。イエスがなさったことがらは、多くの人が目撃しているとおりです。
 もちろん、その奇跡の業については、悪霊の頭によって行なっているに過ぎない、という悪い噂がイエス・キリストについて囁かれていたというのも事実です。しかし、ペトロはすこしも臆することなく、キリストのなさった不思議な業こそ、キリストが神から遣わされた者であることを雄弁に物語っていると語ります。
 実際、キリストご自身、そのような悪口を浴びせられた時、こう反論していました。

 「あなたたちは、わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うけれども、サタンが内輪もめすれば、どうしてその国は成り立って行くだろうか。…しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」(ルカ11:18,20)

 イエスが神から遣わされたことを、どんなに悪意をもって否定しようとしても、キリストの行った業自体がそれに力強く反論しているのです。

 けれども、もしナザレのイエスが神から遣わされたメシアであるとするならば、なぜ十字架で処刑されなけれなならなかったのか、その点を明らかにする必要があります。

 それについてペトロは深くは立ち入らず、ただ、そのことが深い神のご計画によるものであることを述べるにとどめています。
 確かに十字架の必然性について語るのであれば、それが人類の罪の贖いにとって必要不可欠であることを、もっと丁寧に解き明かすべきだったかもしれません。しかし、ペトロは今はそのことにほとんど触れることなく、むしろ復活の方へと話を急いでいます。

 なぜ、メシアは十字架に付けられなければならなかったのか、なぜ、十字架につけられても、なおメシアでありうるのか。この問には幾通りもの答え方があるでしょう。
 ペトロは、死者のうちからの復活こそが、ナザレのイエスがメシアであることを雄弁に物語る証拠であることを指摘します。しかも、ペトロは、キリストの復活がすでに詩編の言葉によって預言されていたものであることを示して、復活も、それに先立つキリストの十字架の死も、神の深いご計画のうちにあることを指し示します。

 こうして、全ては神が預言したとおりに実現し、今、民衆が目の当たりにしている、キリストの弟子たちの身に起こった不思議な出来事も、復活したキリストが約束通りに注いでくださった聖霊の働きであることを告げます。

 しかし、このペトロの説教は、人知を超えた神のご計画について触れながら、人間の側の責任を決してないがしろにするものではありません。キリストを十字架に引き渡した責任は逃れることができません。ペトロの説教は神のご計画を語りつつ、キリストを十字架にかけて殺してしまった者たちの責任を指摘して、悔い改めを一人一人に強く迫っているのです。