2012年2月9日(木)復活の主と聖霊派遣の約束(使徒1:1-5)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 自分が素晴らしいと感じるものは、ぜひ人にも伝えたいと思うのは、人間の自然の気持ちだと思います。キリスト教が時代と地域を超えて伝わり続けているのは、その教えを素晴らしいと感じる人々が絶え果ててしまうことがなかったからでしょう。
 もちろん、弟子たちがキリストの教えを宣べ伝えたのは、そうするようにと復活したキリストが弟子たちにお命じになったからということもあります。
 しかし、キリスト教の教えが全世界に伝わり続けているのは、ただその教えの感化が大きいからとか、キリストが福音を宣教するように弟子たちにお命じになったから、という理由だけではありません。
 それは神ご自身が教会の働きを通して、絶えず神の国の福音を語り続け、神の国へと人々を招いていらっしゃるからです。

 キリスト教とは神の救いの業の思い出話ではありません。過去、現在、未来をとおして救いの完成へと導かれる神の救いの御業そのものなのです。今週から「信徒言行録」の学びに入りますが、この書物には復活のキリストが天に挙げられた後も、キリストが勝ち取ってくださった救いの恵みが、聖霊を通して、全世界に伝えられていく様子が活き活きと描かれています。現在の教会の働きも、この書物の延長線上にあることを思いながら学びを続けていきたいと思います。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書使徒言行録 1章1節〜5節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 テオフィロさま、わたしは先に第1巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。
 イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」

 きょう取り上げた個所は、使徒言行録の序文とでも呼ぶことができる個所です。ルカによる福音書をお読みになったことがある方は、使徒言行録とルカによる福音書とが、同じ人物に献呈されていることにすぐお気づきになったことと思います。どちらの書物もその冒頭に「テオフィロ」という人物の名前が記され、この人物に対してこれらの書物が書き記されていることが明かされています。

 では、この「テオフィロ」という人物がどういう人物であったのか。残念ながら人物を特定するだけの、歴史的資料はありません。分かっているのは、ルカによる福音書1章3節では、テオフィロには「クラティステ」という敬称が添えられているということです。新共同訳聖書では「親愛なるテオフィロさま」と訳されていますが、同じ言葉は使徒言行録24章3節や26章25節では、それぞれフェリクスやフェストゥスに対する呼びけかけとして「閣下」と訳されています。政治的あるいは社会的に相当な地位にある人物に対する敬称ですから、その敬称をもって呼ばれていることからテオフィロがどのような社会的地位の人間であるかは想像がつくと思います。

 しかし、歴史上の特定の人物と結びつけるだけの文献的な証拠が十分にないことから、「テオフィロ」を架空の人物と考える人もいます。特に「テオフィロ」という名前が「神の友」という意味を持つことから、特定の人物ではなく、キリスト者あるいは求道中の者に向けて、この書物が書かれたのではないかと考える人もいます。

 もっとも、そうであるとすれば「閣下」という呼びかけは逆に不自然に感じられます。

 さて、このテオフィロが誰であるのか、ということは、この書物を読み進めていくうえでは、それほど重要なことではありません。むしろ、重要なのは、ルカによる福音書と使徒言行録が同じ著者によって記されているという事実です。通常、ルカによる福音書はマタイによる福音書とマルコによる福音書と並んで、その記されている内容が似ているところから「共観福音書」と呼ばれています。確かに福音書だけを横に並べて比べるとすれば、これらの福音書には共通した部分がたくさんあります。
 しかし、ルカによる福音書が他の福音書と決定的に違う点は、使徒言行録という続きがあることです。つまり、ルカはなお続くキリスト教会の一連の歴史の中で、書物を書き記そうとしているということです。少なくともルカにとっては、キリスト教はイエス・キリストの地上の活動と十字架と復活と昇天と、そしてすぐにもやって来るキリストの再臨で終わってしまうのではなく、地の果てにまで福音が伝わっていく将来の教会の姿を視野に入れながら、書物を記しているということです。
 おそらく、ルカは「福音書」と「使徒言行録」という二冊の書物を書こうとしたのではなく、むしろ上巻下巻を通して一つのことを書き通したかったのだろうと思われます。

 「わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました」と記して、第一巻であるルカによる福音書の内容を要約していますが、この要約は、これから書き記そうとしていることが、第一巻の内容と不可分であることを暗示しています。使徒言行録は決して新たな救いの歴史の記述なのではなく、イエス・キリストの活動から一貫した流れをもった一つの歴史を描こうとしているということです。
 この点こそ、ルカがこの二巻からなる書物を書き著した意義であるということができると思います。

 さて、前置きが随分と長くなってしまいましたが、この使徒言行録の序文に要約されているように、ルカによる福音書には「イエスが行い、また教え始めてから、…天に上げられた日までのすべてのこと」が記されています。使徒言行録はその続きですから、イエス・キリストが天に挙げられてからのことが、その主たる内容です。

 もっとも、復活されたキリストが天に挙げられる日までのことは、それほど詳しい記事をルカ福音書は記していません。その期間は使徒言行録のきょうの個所によれば、期間にして「四十日」のことです。その期間に弟子たちが聞かされた大切なことの一つは「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい」という命令でした。

 これから後に展開される神の国の福音の宣教の働きにとって大切なことは、約束された聖霊をいただくということに他なりません。この書物は「使徒言行録」と呼ばれますが、決してすべての使徒の働きが記されているわけではありません。もちろん、パウロの働きを中心に取り上げられているのでもありません。この働きの中心は、約束された聖霊の働きなのです。そのことに心を留めながらこれから先の学びを続けていきたいと思います。教会の歴史は今もなお働いてくださる聖霊によって導かれているのです。