2012年1月12日(木)異邦人のための福音伝道者パウロ(ローマ15:14-21)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
このせまい国土の日本という国一つを考えてみても、そこに暮らす人々の文化は、決してひとくくりにできないものがあります。地方に行けばその土地土地の暮らしがあり、文化があり、習慣があります。まして使徒パウロが福音を伝え歩いた地中海沿岸地方に住む人々のことを思うと、その文化の多様性はどれほど大きなものがあったかと思わされます。異邦人伝道と一言でまとめるには、あまりにも多種多様な文化の人々であっただろうと想像します。
パウロの福音宣教の働きは、そうしたあらゆる文化的な背景を持つ人々との出会いであったことを考えると、その苦労はどれほどのものであったかと思います。しかも、異なる文化の中に自分が同化していくのではなく、福音がもたらす変革を持ちもうとしているのですから、苦労は絶えなかったに違いありません。
きょう取り上げる個所は、ローマの信徒への手紙の結びにあたる部分です。そこには、神から自分に与えられた使命についての、パウロの力強い言葉が記されています。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ローマの信徒への手紙 15章14節〜21節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
兄弟たち、あなたがた自身は善意に満ち、あらゆる知識で満たされ、互いに戒め合うことができると、このわたしは確信しています。記憶を新たにしてもらおうと、この手紙ではところどころかなり思い切って書きました。それは、わたしが神から恵みをいただいて、異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、神の福音のために祭司の役を務めているからです。そしてそれは、異邦人が、聖霊によって聖なるものとされた、神に喜ばれる供え物となるためにほかなりません。そこでわたしは、神のために働くことをキリスト・イエスによって誇りに思っています。キリストがわたしを通して働かれたこと以外は、あえて何も申しません。キリストは異邦人を神に従わせるために、わたしの言葉と行いを通して、また、しるしや奇跡の力、神の霊の力によって働かれました。こうしてわたしは、エルサレムからイリリコン州まで巡って、キリストの福音をあまねく宣べ伝えました。このようにキリストの名がまだ知られていない所で福音を告げ知らせようと、わたしは熱心に努めてきました。それは、他人の築いた土台の上に建てたりしないためです。「彼のことを告げられていなかった人々が見、聞かなかった人々が悟るであろう」と書いてあるとおりです。
きょうからローマの信徒への手紙の結びの部分に入ります。古くから議論の対象になっていることですが、15章で祈りの言葉をもって手紙はいったん締めくくられているように思われます。しかし16章では個人的な挨拶の言葉が加えられ、再び祈りの言葉で手紙が結ばれています。二つの結びの言葉があるように思われるローマの信徒への手紙ですが、きょうはその問題に深入りすることはしないで、取り上げた個所を順に観ていきたいと思います。
まず、パウロはこの手紙を締めくくるにあたって、ローマの教会の人々が、善意を持った信仰者として、見識にあふれ良識ある人々であることを記します。他の人々がどう思うかは別として、少なくともパウロはそう確信しています。
パウロがこのことをわざわざ記しているのには、理由があります。
既にこの手紙の一章を学ぶ時にも取り上げましたが、パウロにはローマ訪問の計画がありました。来週取り上げようとしている個所には、そのローマ訪問は、スペイン訪問への途上になされるような印象をうけますが(15:24)、1章15節に記されているとおり、それは決してついでになされる立ち寄りではありません。「ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたい」という強い意図がありました。そう言う願いもあって、パウロはこの手紙の中で、自分の福音理解についてかなりの分量を割いて記してきました。
しかし、パウロが記したことは、既にローマの教会にいた人々にとっては、よく知られた福音の内容だったに違いありません。受け取りようによっては、まるで福音について何も知らないかのように自分たちが扱われていると、手紙を読んで感じたかもしれません。
そういう誤解を与えないように、パウロは手紙を締めくくるにあたって、何よりもこの手紙の受取人であるローマの教会の人々が、「善意に満ち、あらゆる知識で満たされ、互いに戒め合うことができる」人たちであることを確認しているのです。
この手紙は決して良識も見識もない人々に対して、福音のイロハを教えるために書かれたものではない、と言いたいのでしょう。特に14章以下で扱ってきたローマ教会内の具体的な問題については、彼らが互いに戒め合うことができないからではなく、むしろその逆で、互いに戒め合うことができる力をもっているからこそ、そのことを前提に記してきたということでしょう。
パウロはこの手紙を読んだローマの教会の信徒たちが抱くかもしれない誤解を取り除いた後で、今一度、このような形でこの手紙を書いた理由を明らかにします。
「記憶を新たにしてもらおうと、この手紙ではところどころかなり思い切って書きました。それは、わたしが神から恵みをいただいて、異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、神の福音のために祭司の役を務めているからです。」(15:15-16)
一つには、ローマの教会の信徒に、もう一度初歩に立ち返って福音を思いだしてもらいたいという思いがあったからです。もちろん、それはローマの教会の人たちが、今にも福音を離れてしまいそうな危険があったから、というわけではありません。しかし、そういう危険がまったくなかったというわけではありませんでした。
すでに1章を学ぶ時にも触れましたが、ローマの教会はもともとはユダヤ人と異邦人とから成り立つ教会でした。しかし、この手紙が書かれる少し前に一時期、ローマからユダヤ人退去の命令が皇帝から下された時期がありましたので(使徒言行録18:2)、ローマの教会からもユダヤ人クリスチャンの姿は消えていたものと思われます。しかし、この手紙が書かれる頃には、再びローマの教会にはユダヤ人クリスチャンが戻ってきていたはずです。それと同時に、ユダヤ人たちがローマから退去させられる原因となった、ユダヤ教とキリスト教の対立の問題が再燃し、キリスト教会の中にユダヤ主義が入り込んでくる危険は十分にあったことでしょう。
また、パウロに対するユダヤ人からの非難や中傷も、ローマのユダヤ人社会からキリスト教会の中に入り込んできて、教会を混乱させてしまう可能性も考えられたはずです。
そういう状況を考えると、パウロが福音について、記憶を新たにさせるような書き方をしたのには十分な理由があったと言えます。
しかし、それよりももっと大きな理由は、異邦人伝道者として立てられた自分自身の使命感によるところがもっとも大きいと言えるでしょう。
そもそも、パウロがローマ訪問を切望したのは、「ほかの異邦人のところと同じく、あなたがたのところでも何か実りを得たいと望んで」いたからにほかなりません(1:13)。
パウロによれば、パウロは異邦人伝道の中でも、とりわけ未開拓の人々への伝道に心を注いできたのです。