2012年1月5日(木)キリストが受け入れてくださったように(ローマ15:7-13)
新しい年を迎えていかがおすごしですか。。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今年もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
聖書の中には「異邦人」という言葉が頻繁に出てきます。ユダヤ人から見た外国の民族をさす言葉ですが、ただ単に「他の民族」という意味ではありません。そこには、まことの神を知らない人たち、という軽蔑的な意味が見え隠れしています。自分たちが神に選ばれた民族であるという誇りに対して、「異邦人」という呼び名には、ほとんど「罪人」というのと同じくらいの軽蔑が込められていました。聖なる神を知らない人たちという意味では、汚れた人たちというイメージとも結びついています。
しかし、イエス・キリストによってこの垣根が取り払われて、キリストを信じる者は誰でも救いの恵みにあずかることができるようになったとき、神の教会にはユダヤ人ばかりでなく、異邦人もまた数多く加えられるようになりました。しかし、救いの福音において、ユダヤ人と異邦人という区別の垣根が取り払われたとはいっても、残念なことに人の気持ちはすぐに切り変わるものではありません。初代の教会にはユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンの間で、少なからぬ緊張関係があったことは否めません。きょう取りあげる個所も、そうした緊張関係がその背景にあります。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ローマの信徒への手紙 15章7節〜13節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。わたしは言う。キリストは神の真実を現すために、割礼ある者たちに仕える者となられたのです。それは、先祖たちに対する約束を確証されるためであり、異邦人が神をその憐れみのゆえにたたえるようになるためです。「そのため、わたしは異邦人の中であなたをたたえ、あなたの名をほめ歌おう」と書いてあるとおりです。また、「異邦人よ、主の民と共に喜べ」と言われ、更に、「すべての異邦人よ、主をたたえよ。すべての民は主を賛美せよ」と言われています。また、イザヤはこう言っています。「エッサイの根から芽が現れ、異邦人を治めるために立ち上がる。異邦人は彼に望みをかける。」希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。
きょうとりあげた個所の冒頭で、パウロは「キリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい」と勧めの言葉を記しています。
この言葉は、一見、先週まで学んできた、教会内での対立…「弱い者」と「強い者」、「野菜だけを食べる菜食主義者」とそうでない者たちとの対立をおさめるための結論的な勧めの言葉と受け取れます。しかし、この勧めの言葉に続く言葉をたどって行くと、ユダヤ人と異邦人のことが話題に上ってきます。とすれば、7節の言葉は、単にそれまで述べてきた事柄の結論というよりは、そのことを踏まえながら、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者の問題にあらためて触れているのではないかと思われます。もちろん、今まで学んできた教会内の対立したグループが、ユダヤ人と異邦人の対立に起因しているということではないでしょう。
ローマにあった教会には、放っておけば教会を分裂させてしまうかもしれないいくつもの要因がありました。それは特にローマの教会の信徒たちに限られた特殊な問題ではありません。形はちがっていても、今の教会の中にも分裂の要因は潜在しているのです。
さて、パウロはこのような人間的な対立が起ころうとする時、心しなければならないこととして、キリストの模範を示しました。それはキリストが罪人であるわたしたちをまず受け入れてくださったという事実です。
教会という共同体が存在するのは、そこに集う者たちの特色や功績が神の目にとまって、一つに集められたのではありません。そういう意味ではわたしたちの側に教会を生み出す要因は何もないのです。そうではなく、キリストがわたしたちをまず受け入れてくださったという事実が先行しているのです。従ってキリストが集めて一つとしてくださったものを、そこに集う人たちの主張によって分裂へと至らせてはならないのです。むしろ、一つとなるように、キリストを模範としながら互いの違いを受け入れるということが大切なのです。
しかも、キリストがわたしたちを受け入れてくださった目的はただ、「神の栄光のため」だけでした。
パウロがここでキリストを模範として、ローマの教会の人たちに訴えているのは、ただ単に一致のために相手を受け入れるということばかりではありません。そこには「神の栄光のため」という目的と動機も含まれています。
パウロは組織を維持するために互いに受け入れよ、とは言いません。パウロがこれから述べようとしている伝道計画が思い通り進むように、教会内部をまず結束させるため、互いに相手を受け入れよ、とも言いません。
キリストが神の栄光のためにわたしたちを受け入れてくださったように、わたしたちも神の栄光が現れることを願って、互いに受け入れあうことを実践していかなければならないのです。どんなに一致していても、どんなに内部の結束が固くても、それが神の栄光を現すことと結びついていなければ意味がありません。
もっとも、「神の栄光のため」という言葉ほど、抽象的で漠然とした言葉はないかもしれません。「神の栄光のため」という言葉と正反対な生き方が何であるかを考えれば、少しはピンと来るかもしれません。「神の栄光のため」とは正反対の「自分の栄光のため」と言えば、そちらの方がイメージしやすいでしょう。そういう自己中心的な栄光の求め方をしない生き方こそ、ここで求められている生き方です。
もっとも、自分の栄光を求めない生き方をすれば、必ず神の栄光を現すことになるか、といえば、必ずしもそうとは言えないでしょう。自分の栄光を求めず、なおかつ、目的と動機が神の御心にかなったものでなければ、「神の栄光のため」とは言えません。
初代教会にとって、ユダヤ人と異邦人の間にあった垣根を取り払うことは大きな課題でした。その課題に取り組むには、神の御心にそってこのことを理解しなければ、ほんとうの意味での一致は実現しません。
かつて神はアブラハムを通してイスラエル民族を選び、その神となり、彼らは神の民とされました。そして、このイスラエル民族を通してキリストをこの世に送ろうと神は計画されたのです。その神の約束はイエス・キリストを通して確かに実現されました。
しかし、神がアブラハムを選ばれたのはイスラエル民族の救いのためだけではありませんでした。神はアブラハムを祝福して、あらゆる国民の父となることも同時に約束されました。そして今や、この約束がイエス・キリストによって実現しているのです。アブラハムの信仰と同じ信仰に立つ者を神は義としてくださり、一つの民としてくださったのです。そのように神は御計画し、そのようにイエス・キリストによってこの約束が実現したのですから、もはやユダヤ人と異邦人という垣根は取り払われたのです。