2011年12月22日(木)兄弟をつまずかせない配慮(ローマ14:13-23)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 神が明白に禁じている事柄は、決してしてはならないということは、クリスチャンにとって自明の道徳原理です。この場合の「明白に」という意味は、聖書が文字通り禁じているということはもちろんのこと、そこから正当に導き出される結論も含まれることは言うまでもありません。
 たとえば、聖書には「麻薬を常用してはならない」という文字通りの禁止命令はありません。しかし、麻薬を常用すれば、健康も人格も破壊し、ついには命さえ危険にさらすことは明白です。ですから、文字どおりの禁止命令がなくても、その行いが命の尊厳を重んじる神の御心に反することが明らかである以上、その様な行いは禁じられていると理解されています。
 しかし、神の言葉によって明白に禁じられてはいないし、また、積極的に行うようにとも勧められていない事柄は、世の中にたくさんあることは事実です。そうした事柄に関しては、するもしないもキリスト者の自由であると基本的には考えられています。しかし、その自由を何時でも主張できるのかというと、必ずしもそうではありません。むしろ、その自由を控えめに用いなければならない場合が、教会という共同体の中にはあるのです。
 きょう取り上げる個所には、この自由な事柄についての、クリスチャンとしての態度が描かれています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ローマの信徒への手紙 14章13節〜23節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 従って、もう互いに裁き合わないようにしよう。むしろ、つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい。それ自体で汚れたものは何もないと、わたしは主イエスによって知り、そして確信しています。汚れたものだと思うならば、それは、その人にだけ汚れたものです。あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば、あなたはもはや愛に従って歩んでいません。食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその兄弟のために死んでくださったのです。ですから、あなたがたにとって善いことがそしりの種にならないようにしなさい。神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。このようにしてキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々に信頼されます。だから、平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか。食べ物のために神の働きを無にしてはなりません。すべては清いのですが、食べて人を罪に誘う者には悪い物となります。肉も食べなければぶどう酒も飲まず、そのほか兄弟を罪に誘うようなことをしないのが望ましい。あなたは自分が抱いている確信を、神の御前で心の内に持っていなさい。自分の決心にやましさを感じない人は幸いです。疑いながら食べる人は、確信に基づいて行動していないので、罪に定められます。確信に基づいていないことは、すべて罪なのです。

 きょうの個所も、前回に引き続いて、ローマの教会内にいた菜食主義者とそうでない者たちとの対立がその背景にあります。お互いにそれぞれの立場を尊重し、自分の考えを相手に押しつけさえしなければ、何も問題は起こらない些細な事柄であるべきはずのことです。しかし、立場の違いはすぐにも対立を生みだし、すべての事柄に白黒の決着をつけないとおさまらないほどに、人の心をせまくしてしまいがちです。

 パウロはこうした教会内の対立に対して、「もう互いに裁き合わないようにしよう」と勧めます。

 「裁き合わないように」という勧めの言葉は、どちらの立場に立つ人に対しても向けられています。確かに、14章3節では、野菜しか食べない人が何でも食べる人を裁いているのであって、何でも食べる人は野菜しか食べない人をただ軽蔑しているだけです。しかし、この軽蔑は、野菜しか食べない人を軽蔑に値する者と一方的に判断しているという点で、やはり相手を裁いていることなのです。ですから、パウロは両者に対して、裁きあうことをやめるようにと勧めているのです。

 もちろん、最初にも述べたとおり、野菜だけを食べるべきか、それとも何でも食べることが許されているのか、という問題は、どちらかを神が明白に命じたり、明白に禁じたりしているという事柄に属する問題ではありません。少なくともパウロにとっては、どちらであってもよいという自由の問題でした。もし、どちらかの態度が神によって明白に禁じられているのであれば、パウロは裁いてはならない、などとは言わなかったでしょう。むしろ、ガラテヤの教会の人たちに勧めたように、柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい、と勧めたことでしょう(ガラテヤ6:1)。

 ただ、ここで問題となっているのは、自由に属する問題でありながら、野菜だけを食べる人は、そうすることに重要な意味を見出しているということであって、それ以外の立場を認めることができないというものでした。
 それに対して、何でも食べることができると考える人は、何でも食べなければならないという積極的な主張なのではありません。そうではなく、何を食べたとしても、それによって汚れるわけでもなく、何か一つのものにこだわったとしても、それによって特別な恩恵がもたらされると考えてもいなかったということです。そう言う意味では、野菜だけを食べる人がいたとしても、その人を特別に賞賛することも非難することもなかったはずです。ただ彼らが軽蔑しているのは、本来それによって特別な利益も不利益ももたらさないはずのものを、あたかもそうであるかのように受け止めている信仰的な態度を軽蔑しているということでしょう。

 そこで、パウロはさらに進んで、こう命じます。

 「つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい。」

 この言葉も両方の立場に対して向けられた言葉です。確かに、野菜しか食べない人の前で、わざわざ野菜以外のものを食べることは、相手をつまずかせてしまうことは明らかです。相手をつまずかせてしまえば、健全な信仰の成長を妨げてしまいます。その意味では、この勧めの言葉は、もっぱら何を食べてもよいと考える人たちに向けて語られているように思われます。

 しかし、野菜しか食べない人が、つまずきや妨げになる場合もありうることを心に留めなければなりません。野菜以外のものを食べるクリスチャンは汚れているなどと強引に主張し始めたとすれば、それは何を食べてもよいと考える信者をつまずかせ、健全な信仰の成長を妨げてしまうからです。
 ただ、前回学んだ個所で、パウロは野菜しか食べない信徒を「信仰の弱い人」と呼んでいますから(14:1)、もっぱらつまずきや妨げを感じているのは、野菜だけを食べる信徒の方だったのでしょう。

 パウロ自身の立場は14節に述べられている通り、「それ自体で汚れたものは何もないと、わたしは主イエスによって知り、そして確信しています」という立場です。しかし、パウロはこの確信をすべての人に押し付けようとはせず、各自が確信するところを神の御前でしっかりと心に持つことを願っています。

 パウロにとってさらに大切なことは、食べ物について兄弟が心を痛めるような事態がおこれば、そのことが、愛の律法に反してしまうという指摘です。
 パウロにとっては何を食べることも何を食べないこともキリスト者の自由に属する問題であり、そのこと自体は神の国の本質的な問題ではありません。しかし、その自由が愛の掟に反する事態をもたらす時、自由はもはや善ではなくなってしまうのです。
 積極的な言い方をすれば、平和や互いの向上に役立つことを追い求めること(19節)、そのためにこそキリスト者の自由は用いられるべきことなのです。