2011年12月15日(木)個々人の確信と良心を重んじる(ローマ14:1-12)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
教会の中で、皆が一致した信仰と生活の基準をもっているということはとても大切なことです。しかし、キリスト者の考えから生活まで、すべてが同じでなければならないというわけではありません。キリスト教信仰にとって重大な要素とそうでないものとがあることは誰もが知っていることだと思います。
たとえば、キリスト教会の中で、イエス・キリストが救い主であるかどうかについて、自由な考えを持つことができるか、と言えば、そうではありません。なぜなら、それはキリスト教信仰の根幹にかかわる問題だからです。
しかし、日曜日の礼拝に男子はネクタイを着用すべきかどうか、という問題は、キリスト教信仰の根幹にかかわる問題ではありません。そう言う問題についてまで、一致を求めるとしたら、それは行き過ぎた画一化と言わざるを得ません。しかし、自分の主義として、必ずネクタイを着用することを重んじる人がいたとしても、その人を排除することができないことも事実です。
今、挙げた例は極端な例なので、そんなことで教会の一致が妨げられてしまうということはないでしょう。しかし、似たような問題で教会内にぎすぎすとした対立が起こってしまう、ということはよくあることです。
きょう取り上げる個所には、こうした問題についてどう取り扱うべきか、その基本的な考え方が記されています。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ローマの信徒への手紙 14章1節〜12節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。神はこのような人をも受け入れられたからです。他人の召し使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか。召し使いが立つのも倒れるのも、その主人によるのです。しかし、召し使いは立ちます。主は、その人を立たせることがおできになるからです。ある日を他の日よりも尊ぶ人もいれば、すべての日を同じように考える人もいます。それは、各自が自分の心の確信に基づいて決めるべきことです。特定の日を重んじる人は主のために重んじる。食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。また、食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝しているのです。わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか。わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。こう書いてあります。「主は言われる。『わたしは生きている。すべてのひざはわたしの前にかがみ、すべての舌が神をほめたたえる』と。」それで、わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです。
きょう取り上げる個所には、ある事柄を巡って対立する考えを持ったグループが登場します。野菜だけしか食べない菜食主義のグループと、何を食べても差し支えないと考えるグループです。また、特定の日を他の日よりも重んじるグループと、どの日も同じと考えるグループです。両者はそれぞれ同じグループなのかはどうかは、定かではありません。また、特定のこだわりをもった人たちが、どのような理由でそう言う主張を持つようになったのかは明らかにされていません。ただ、一つ言えることは、そうした特定の主張を持つ人たちが、その主張をキリスト教信仰の根幹とまでは強く主張していなかっただろうということです。もし、それをキリスト教信仰に不可欠なものと主張しているのであれば、パウロはガラテヤ書やコロサイ書で扱ったのと同じように、もっと違った仕方でこの問題を取り上げたことでしょう(ガラテヤ4:8-11、コロサイ2:16-23参照)。
パウロは特定のこだわりを持つ方の人たちを「信仰の弱い人」と表現しています。それに対して、自分を含めた自由な立場に立つグループを「強い者」と呼んでいます(15:1)。もっとも、ここでいう「弱い」とか「強い」という表現は相対的なものの表現であって、その意味は、食べ物や日にちに関して、いちいち良心に問いながら生活をおくるのか、それとも、そういうことにまったくこだわりを持たずに生きるのか、という違いにすぎません。どちらが強く、どちらが弱いか、ということはここでの問題ではありません。
パウロはこうした問題について、どちらか一方を正しいとし、どちらか一方を間違った生き方として排除してしまうことをしません。むしろ、互いに批判したり、軽蔑したり、裁いたりしないようにと勧めます。
その理由は、「神はこのような人をも受け入れられたから」だとパウロは述べます(14:3)。パウロはコリントの教会で起こった偶像に供えられた肉を巡っての議論の時にも、同じように「その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです」と述べています(1コリント8:11)。
議論が対立するあまり、相手が同じ神によって受け入れられ、同じキリストの血によって贖われた者であることを忘れてしまってはなりません。意見が対立する時にこそ、相手もまた同じ主によって立てられた者であるという事実を覚える必要があるのです。同じ主によって贖われ、同じ主によって立てられたことを思う時に、相手を尊重する思いもまた生まれて来るからです。
さて、パウロはこのような問題に対しては、「各自が自分の心の確信に基づいて決めるべきこと」だ、と述べます(14:5)。各自がもっている確信の大切さをパウロは指摘します。何の確信もなく、ただ大多数の人がそうしているから、自分もそうするという態度こそ、キリスト者にとって注意すべき態度なのです。その場合の確信とは、何事をなすにしても、それが「主のためである」という確信です。
キリスト者の生活は、それが自分のためではなく、主のためである、という各自の確信と判断につらぬかれていなければなりません。
パウロは述べています。
「特定の日を重んじる人は主のために重んじる。食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。また、食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝しているのです。」(14:6)
主の尊い十字架の血潮によって贖われ、生きるにも死ぬにも主のものとされた一人一人は、各自の確信に基づいて、主のために生きること、そのことが求められているのです。