2011年12月8日(木)今の時を意識して(ローマ13:11-14)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 この世界が何時までも続かないかもしれない、という漠然とした思いは、誰もが抱いていることかもしれません。しかし、それが自分が生きているときに訪れるかもしれない、というほど切迫した気持ちで毎日を生きている人は、それほど多くないかもしれません。
 そして、世界の終わりが来るよりは、自分の寿命が尽きる方が先だと思っている人であっても、余程の事情がない限り、自分が亡くなるのは今日明日のことではないと、漠然と思っているのではないかと思います。

 人間とは不思議なもので、世界の終わりや自分の終わりがいつかは来ると思ってはいても、しかし、そのことをあまり深く考えすぎないようにしているようです。
 もちろん、そのことばかり気にしすぎていたのでは、何も手につかなくなって、なすべきことが何もできなくなってしまいます。それでは今生きている、そのことの意味があいまいになってしまいます。
 きょうの聖書の個所では、キリスト者として今の時を意識しながら、どう生きるべきかが命じられています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ローマの信徒への手紙 13章11節〜14節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。

 前回取り上げた個所では、隣人愛の問題が取り扱われました。「愛は律法をまっとうする」とパウロは述べて、キリスト者が愛に生きることを勧めています。
 きょうの個所は一見隣人愛の勧めとは直接結びつかない印象を受けるかも知れません。隣人愛とはまったく違ったテーマが唐突に取り上げられている、という印象を受けるかも知れません。しかし、パウロにとってキリストを信じる者には、絶えず今の時がどういう時であるのかを意識した生活が求められているのです。

 パウロは、今の時を「あなたがたが眠りから覚めるべき時」と呼んで、その時が既に来ていると記しています。
 「眠りから覚めるべき時」というのは、あたかもそれまでは眠っていた時間であるかのような表現です。聖書の中には、肉体の死を迎え、墓に葬られた人を「眠りについた人」(1テサロニケ4:13)と呼んで、死からのよみがえりを「眠りから覚める」と表現されることがあります(ダニエル12:2)。しかし、ここでパウロが語っているのは死者が復活するという意味での「眠りから覚めるべき時」のことではありません。この手紙を手にしている人は生きている人なのですから、「あなたがたが眠りから覚めるべき時」が「死からの甦りの時」のことではないことは明らかです。
 確かに聖書には、世の終わりの時には、既に墓に眠っている者は、善人であれ悪人であれ、甦って、最後の審判を受けることが記されています(ヨハネ5:28-29)。しかし、パウロが語っているのは道徳的倫理的な意味での「眠り」の話です。
 パウロは夜と昼、闇と光とを区別して、罪の世界を夜の闇の世界に例えています。キリストがこの世においでになる前は、世界は罪の闇に覆われていました。夜には人が眠るように、罪の世界では人々は眠りこけているのです。もちろん、それは善をなすことについて、また神に対して眠りこけている状態です。誰も正しいことを行おうとしないという意味で、また、誰も神を畏れ敬わないという意味で、眠っているのと同じ状態なのです。
 けれども、悪い行いという点からいえば、悪に対しても眠っているというわけではありません。闇の世界の業を懸命に行って罪を犯しながら生きているのです。

 パウロによれば、こうした眠りから目覚めるべき時が既に到来しているのです。なぜなら、救いが近づいてきているからです。信じた時よりも、確実に救いの完成の時が近づいているというのです。

 パウロは、この「時間意識」の中で生きるべきことを、ローマの教会の信徒たちに勧めています。ここには明確な時間に対する意識があります。人は漫然と流れていく時間に身をゆだねて、永遠に終わりのない時間の中を漠然と漂っているのではありません。この世界に神によって作られた初めがあるように、終わりの時もまた神によって定められているのです。そして、世界はその終わりへと向かって確実に時間を進めているのです。その時間を意識して生きる大切さをパウロは語っているのです。

 先週取り上げた、隣人愛に生きる勧めの言葉は、いつか機会があれば実践してみればよい、という勧めではありません。また、隣人にも終わりがあり、この自分にも終わりがあり、そして世界にも終わりがある、だから何をやっても空しいというのでもありません。むしろ、終わりを迎えた闇の世界の向こうには、光に輝く昼の世界、救いの世界があることを知っているからこそ、そして、その時が近づきつつあることを知っているからこそ、神の御心に生きることがいっそう重要に感じられるのです。

 新約聖書の教えは、こうした終末に向かう時代意識をしっかりと背景にもつものが少なくありません。ペトロもその手紙の中で、こう述べています。

 「万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい」(1ペトロ4:7-8)

 隣人愛の実践は、終末の時を意識するときにこそ、よりよく行うことができるということでしょう。何時までもどこまでもきょうと同じ明日があると思う心には、隣人愛を行う機会も遠のいてしまうことでしょう。

 さて、パウロは今の時が、夜から昼へと向かう時であることを指摘します。その時の意識から、「闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けよう」と呼びかけます。

 そのすぐあとに、闇の行いを具体的に挙げています。

 「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、主イエス・キリストを身にまといなさい。」

 もちろん、闇の行いがこれだけに限られるということではないでしょう。具体的な例をいくつか挙げただけであって、14節の言葉を借りれば、それらは、欲望を満足させようとして、肉に心を用いてしまう生き方なのです。

 ところで、パウロはこうした闇の行いを脱ぎ捨てるように命じていますが、それは決して裸になることではありません。一方では「光の武具を身につけ」、他方では「キリストを身にまとう」ことが命じられています。「光の武具」という言い方には、これが戦いであるという意識があります。と同時に、この戦いが自分一人の戦いではなく、キリストの戦いであることも意識されているのです。
 キリストと結びついて、光の子としてこの世での戦いを戦い抜くことが求められているのです。