2011年12月1日(木)隣人への愛(ローマ13:8-10)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 「キリスト教は愛の宗教だ」とよく言われます。わたしがキリスト教を信じたばかりのころ、その言葉に何となく抵抗がありました。というのは、キリスト教はそんな簡単なひとことで表現できるものではない、という気持ちが心のどこかにあったからです。それともう一つには、「愛の宗教」という表現がとても薄っぺらな言葉に聞こえたからです。
 その当時のわたしは、キリスト教の書物を読みあさっていた割には、それを十分に消化することができなかったために、単純な一言でキリスト教を言い表してしまうその表現に、不必要な抵抗をしていたのかもしれません。
 そして、「愛の宗教」という表現がとても薄っぺらな言葉に聞こえたのは、自分の薄っぺらなキリスト教理解と比例していたのかもしれません。
 しかし、今は「キリスト教は愛の宗教だ」と心から口にすることができます。それは第一に、神から罪人であるわたしたち人間に向けらた愛の宗教であり、第二に、その神の愛に応えて、神を愛する宗教であり、そして、第三に、この神の愛に生かされた人間が、他者を愛する宗教だからです。
 さて、きょうの個所には、隣人愛について語るパウロの言葉が記されています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ローマの信徒への手紙 13章8節〜10節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。

 前回の個所のおしまいで、パウロは「すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい」と述べました。きょうの個所の冒頭の言葉は、明らかに、その言葉を受けているように思います。

 「すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい…。だれに対しても借りがあってはなりません」

 果たすべき義務を果たさなければ、あちこちに借りを作ってしまうのは当たり前の結果です。借りたお金を返さなければ、当然負債を抱えることになります。クリスチャンの生き方として、果たすべき義務を果たさずに過ごすことは、クリスチャンとしての倫理に反することです。しかし、逆にいえば、借りを作らない生き方を送ることで、すべての義務を果たしたとも言うことができます。たしかに、たいていの場合はそうでしょう。
 しかし、パウロは「互いに愛し合うことのほかは」と例外を設けます。互いに愛し合うということは、どんなに愛し合ったとしても、それで十分ということはありません。これだけ愛したから、十分に義務を果たしたとは、誰も言うことはできないのです。そもそも愛には、愛する主体と愛される対象がある限り、終わりや限度がないのかも知れません。

 もちろん、人間には限界がありますから、実際には個々の行為には限度があります。たとえば、イエス・キリストがお語りくださった「よいサマリア人のたとえ話」でも、強盗に襲われた人を助けたサマリア人は、いったんはその人を宿屋の主人の手に託します。その意味では一から十までつきっきりで面倒をみたというわけではありません。
 しかし、それで自分の義務を十分果たしたと思っていたわけでもありません。つきっきりで面倒をみることはできなくても、しかし、帰りに宿屋にまた立ち寄って、必要な費用を支払おうとします。助けて宿屋に運び入れた時点で、この人に対する愛も関心も失ってしまったのではありません。
 ただ、よいサマリア人の話はあくまでもたとえ話ですから、その後、このサマリア人が強盗に襲われた人とどんな関係を持ち続けたのかは記されていません。必要な費用を宿屋の主人に支払って、それで終わったかもしれません。これはこれで終わって、また新たな助けを必要とする人を助けたかもしれません。

 パウロの言葉に戻りますが、パウロは果たすべき義務は、借りがなくなるまで果たすのは当然としながらも、しかし、愛に関して言えば、借りがなくなるほどにこの義務を果たしたと言えることはないのです。

 ところで、「愛は果たして義務なのか」という疑問の声が聞こえてきそうです。義務感で愛されたとしても、ちっともありがたくないという気持ちは分かります。心からそうしたいと思う自然な気持ちによって愛することが大切なのも理解できます。
 しかし、時と場合によっては、自然な気持からではなく、義務として愛さなければならないという場合もあるでしょう。
 イエス・キリストは「敵を愛せよ」とお命じになりましたが、敵対する者を愛するということは、決して自然な感情ではありません。自然な感情で敵を愛することができるとすれば、その相手はもはや敵とは言えないでしょう。敵に対しては嫌悪感を抱くのが自然の感情ですが、しかし、その気持ちを乗り越えて、敵に対して愛を示すべきことをイエス・キリストはお命じになっているのです。それは愛することがただ人間の感情ではなく、崇高な義務として必要だからです。

 さて、パウロは「人を愛する者は、律法を全うしているのだ」と述べて、律法と隣人愛の関係を明らかにします。このことは主イエス・キリストもおっしゃっていることですが、旧約聖書に記された数多くの道徳律法は、つまるところ十戒に要約され、その十戒は神に対する愛と、隣人に対する愛とに要約されるのです。言いかえれば、律法を守るということは、愛を実践することであり、愛を伴わない律法の実践は無意味で空しいことなのです。
 全うするという言葉は、本来は「満たす」という意味の言葉です。どんなコップでもいきなり水を満タンに満たすことはできません。水は底から順に溜まって、ついにはコップの淵にいたり、あふれ出るものです。律法を愛によって全うするというのも、そのイメージに似ているかもしれません。愛することによってだけ、律法の器は満たされて行き、ついにはあふれ出るのです。

 パウロはこの段落を結んでこう述べます。

 「愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。」

 愛は律法を全うし、愛だけが神の御心を全うすることができるのです。