2011年11月24日(木)上に立つ権威への姿勢(ローマ13:1-7)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 政治的支配者と信仰者の共同体との関係は古くから議論の対象でした。近代国家が成立してからは、「教会と国家」、あるいは「宗教と国家」という問題が幾度となく議論されてきました。それは政治思想という観点からも論じることができますが、神学の問題としても論じなければならない大きなテーマです。その場合、必ずと言っていいほど引用される聖書の個所があります。その一つはきょう取り上げようとしているローマの信徒への手紙13章です。
 ちなみにローマの信徒への手紙13章とは対照的なのは、同じ13章でも、ヨハネの黙示録13章に記された暴君的支配者と教会との関係です。このどちらか一方だけを受け入れ、他方を退けるとすれば、聖書全体の教える教会と国家の関係を正しく理解できなくなってしまうことでしょう。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ローマの信徒への手紙 13章1節〜7節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう。実際、支配者は、善を行う者にはそうではないが、悪を行う者には恐ろしい存在です。あなたは権威者を恐れないことを願っている。それなら、善を行いなさい。そうすれば、権威者からほめられるでしょう。権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです。しかし、もし悪を行えば、恐れなければなりません。権威者はいたずらに剣を帯びているのではなく、神に仕える者として、悪を行う者に怒りをもって報いるのです。だから、怒りを逃れるためだけでなく、良心のためにも、これに従うべきです。あなたがたが貢を納めているのもそのためです。権威者は神に仕える者であり、そのことに励んでいるのです。すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい。

 ローマの信徒への手紙13章1節は、唐突とも思える仕方で、「人は皆、上に立つ権威に従うべきです」と記されます。なぜパウロがこの問題をこう言う形で取り上げたのか、はっきりとした理由は知られていません。特に12章後半とのつながりはそれほど明確ではありません。
 たとえば、パウロは12章19節で「自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい」と述べました。そのつながりで13章4節を読むと、政治的な権威者は神の怒りを代行する権能を帯びているので、この権威者に悪を行う者の処罰を期待することは、神の怒りにまかせることにつながるのだ、と読めなくもありません。
 しかし、また12章14節に言われている「あなたがたを迫害する者」とは、しばしば政治的支配者自身である場合を考えると、13章でパウロは上に立つ政治的権威者との関係を正しく理解させる必要を感じたのかもしれません。
 このように12章との関係を見いだせなくはありませんが、しかし、それほど明確なつながりがあるとは言い難いものがあります。

 さて、先ほど冒頭でも述べましたが、このローマの信徒への手紙13章は、教会と国家との問題を論じるときに、必ずと言ってよいほど参照される個所です。しかし、13章1節でパウロが語っている「上に立つ権威」とは「国家権力」に限定されるわけではありません。一般論として今ある権威すべてについて語っている個所です。
 パウロはまず、どのような権威であっても、それが神によって立てられたという理由で、権威に従うべきである、という原則を述べます。
 ただ、その場合、「上に立つ権威」として、パウロが具体的に考えていたことは、13章4節によれば命を奪いうる剣を帯びている人のことですから、政治的な支配者ということができるでしょう。

 ところで、パウロのこの論法、つまり、上に立つ権威は神によって立てられたのだから、これに従うべきである、という論法は、一見支配者たちにとって都合のよい論理に聞こえます。しかし、パウロが言いたいことは、支配者のどのような勝手気ままな支配も、神がそれを権威づけているということでは、決してありません。
 支配者の権威に従うべきなのは、それが神によって立てられてた権威であるからであって、言い換えれば、権威をお立てになった神の正義と、支配者の支配とが合致している限りでのことなのです。支配者の権威は神の権威の下にあり、神の権威と矛盾していてはならないのです。
 14節にあるとおり、権威者は「善を行わせるために、神に仕える者なのです」。従って神に逆らい悪を行う権威者にも従うことを求めるものではありません。
 パウロは、権威者は神によって立てられたがゆえに従うべきことを勧めますが、その権威者自身が「神に仕える者」であることを繰り返し述べています(4節、6節)。パウロにとっては、神に仕えない権威者は、権威者ではないのです。

 もっとも、パウロがここで言っている「神に仕える者」という意味は、権威者はキリスト教信仰を持つ者であるべきだ、という意味ではありません。彼らがその自覚がなくとも、結果として神の善と正義を実現するために役立つ者であることが言われているのです。その意味で、たとえ上に立つ権威者が、キリスト教信者でないとしても、なお、彼らの働きが神の正義を打ち立てる限りにおいては、その人々に対して従順に従うべきなのです。

 ちなみに、パウロがこの手紙を書いた時代のローマは、皇帝ネロの時代でした。もちろん、ネロの初期の時代でしたから、黙示録13章に暗示されている凶暴な野獣のようなネロの時代とは異なります。しかし、異教の神々を信じる皇帝という点では、キリスト教と相いれないものを最初から持っていたことは疑いようもありません。しかし、それでもなおパウロは、神の正義を実現している限りにおいては、上に立つ権威に従うべきことを命じているのです。

 さて、政治的な権威に従うということは、具体的には納税の義務に従うことも含みます。

 パウロは、「貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい」と勧めます。

 実は、この点こそ、後にユダヤ戦争を引き起こした人々の信仰とは大きく異なる点なのです。特に、まことの神、主だけが自分たちを支配する王であると信じ、異邦人の支配者に税を納めることは神への裏切りだと考えていた熱心党の人々の信仰とは対照的な態度です。

 パウロが、このように納税を含む政治的権力への服従を説いたのは、キリスト教会が弱小な集団だったからではけっしてありません。剣が自分たちの身に及ぶのを恐れて、服従を勧めているのでもありません。ただ、それが上に立つ権威をお立てになった神の御心である、と信じていたからです。

 国家と教会の問題は今日の日本でも大きな問題を含んでいます。特にキリスト教とは相いれない政治がおこなわれるときには問題が深刻になります。しかし、そのような状況にあっても、上に立つ権威に従うべき点と、断固として戦うべき点とを冷静に見極める知恵が大切なのではないでしょうか。