2011年11月3日(木)神にささげる生き方(ローマ12:1-2)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
キリスト教を信じるということは、ただキリスト教の教えを頭で理解し、その教えに同意するということだけではありません。キリスト教を信じるということは、その人の生き方全体を変えるほどの、大きな変化をもたらすものです。
キリスト教の教えはとても素晴らしいと認めるけれども、しかし、わたし自身は何も変わりたくないし、変える気持ちもない、というのでは、キリスト教を信じたことにも受け入れたことにもなりません。
しかし、また、あなたの生活が変わるまでは、キリスト教を信じたことにはならない、というのでもありません。
キリストによってもたらされる大きな変化を受け入れ、期待し、その変化に身をゆだね、また、自分からも変わろうと真摯に願う気持ちをもって、はじめてキリスト教を信じているということができるのだと思います。
きょうからローマの信徒への手紙も12章に入りますが、ここからはキリスト教の教えというよりは、その教えを受け入れたキリスト者が、どう生きるべきか、具体的な勧めが記されています。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ローマの信徒への手紙 12章1節と2節です。新共同訳聖書でお読みいたします。
こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。
ローマの信徒への手紙は12章から新しいテーマに入ります。今までの学びが、どちらかと言えば教理的な、キリスト教の教えにかかわる事柄をおもに扱ってきたのに対して、12章以下にはキリスト者としての生き方や倫理の問題が取り上げられています。それは単に教会での生活に範囲が限られたものではありません。キリスト者として生きるということは、教会での生き方と、この世での生き方とを区別して、二足のわらじを巧みに履き替えることではなく、神のみ前に生きる一つの原理を一貫して生き抜くことに他ならないのです。
さて、パウロは「こういうわけで」という書き出しで新しい文章をはじめています。もちろん、パウロが「こういうわけで」という言葉で文章を始めるときには、いつも新しいテーマがはじまるわけではありません。実際パウロは今までにも「こういうわけで」という言い方を使っていますし(7:12)、この後にも使います(15:22)。さらに、同じ言葉は「そればらば」(2:21)、「だから」(2:26)、「では」(3:1,9,27; 4:1,9; 6:15,21)、「なぜなら」(3:28)、「それでは」(3:31; 7:13)「このように」(5:1)「従って」(6:12; 7:3,7)など、様々に訳されますが、そのすべてが新しい章の始まりを示しているわけではありません。けれども、ここで使われている「こういうわけで」という言葉が、この手紙の中で今までに述べてきたことがらを受けながら、新しいテーマを展開させるしるしとなっていることは間違いありません。
というのは、ここで使われている「こういうわけで」という言葉が受けている範囲は、単に直前の11章36節に限定されるとはとても思えない広がりを持っているからです。パウロは、自分の体を聖なるいけにえとして神に献げるように、と勧めていますが、その際に、神の憐れみにうったえて勧めの言葉を記しています。
この書簡の中で、神の憐れみについてパウロが語っているのは、9章と11章に集中していますが、この神の憐れみは、神の一方的な恵みと切り離して考えることのできない概念です。神が、行いではなく、信仰による義をお与えになることをお決めになったのも、神の憐れみがあってのことです。
つまり、「こういうわけで、神の憐れみによってあなたがたに勧めます」という言葉の背景には、1章から11章にかけて述べてきた、神の恵みと憐れみによる救いが前提にあって、そのことを受け入れて、初めて、勧めの言葉が意味をなすのです。言い換えれば、ここから始まる一連の勧めの言葉は、1章から11章にかけて展開してきた教えと切り離しては、成り立たない勧めの言葉なのです。
さて、パウロはキリスト者の生き方の原理として、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい」ということを最初に掲げています。この場合の「体」というのは、「心」や「思い」に対して「体」と言っているのではありません。「体は神に、心は自分の手元に」という意味ではありません。心や思いはもちろんのこと、その心や思いの器となっている体さえも、神に差し出すことが、求められているのです。つまり、自分のすべてをもって神に捧げる生き方です。
パウロはその際に「いけにえ」という神殿で神に献げられる動物犠牲を念頭にこの勧めをしています。神殿で犠牲として献げられるいけにえは、しみや傷があってはならないという意味で、特別な清さが求められていました。しかし、神のために特別に取っておくという意味で、それらの犠牲は聖別された聖なるいけにえなのです。それと同じように、神のご用のために自分自身を取り分けておくと言う意味で、キリスト者の生き方は「聖なる」いけにえなのです。
そして、同時に「生ける」いけにえとも呼ばれます。動物犠牲は献げられるときには生きていますが、祭壇で屠られたあとは死んでしまいます。しかし、キリスト者に求められていることは、「生きた」いけにえとして、神に仕えることです。
パウロはここで「これこそ、あなたがたのなすべき礼拝」と述べていますが、この「なすべき」という言葉は、「理にかなった」あるいは「霊的な」とも訳すことができる言葉です。ここでは、神殿でいけにえを献げて守る礼拝と対比して、自分自身を聖なる生きたいけにえとして献げる礼拝のことを「なすべき」「霊的な」「理にかなった」礼拝と呼んでいるのです。
「礼拝」という言葉の本来の意味は「仕える」「奉仕する」という意味ですから、キリスト者の生涯は神に仕え、神に奉仕する生き方であるということができます。その原則から外れる生き方であってはならないのです。
いえ、神の恵みと憐れみによって救いを与えられているのですから、その恵みに感謝し、神に仕える生き方なのです。
さて、続く2節でパウロが述べていることは、同じ真理をもうすこし別な言い方で表現した内容です。つまり、自分自身を神に献げる生き方とは、この世に倣わない生き方です。それはけっして浮世離れした生き方をせよ、という意味ではありません。
この世にはこの世の原理があります。それは聖書によれば、罪の思いが支配する世界です。この世が持っているこの世の形に妥協して生きれば、いつかはまた罪の世界に逆戻りしてしまいます。
そのためにも、心を一新して、神の御心がどこにあるのか、何が神に喜ばれるよいことであるのかを、聖霊と神の御言葉とに導かれて探求しつづけることが求められているのです。そういう生き方こそ、神に仕える生き方なのです。それはキリスト者の生活のどの場面にも適用される原理なのです。