2011年10月27日(木)イスラエルの回復(ローマ11:25-36)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
聖書に記された救いの歴史を学ぶときに、随分気の長い話のような印象を持つのではないかと思います。アダムとエバの堕落から始まって、イスラエルの選びのもととなるアブラハムの選びと祝福の約束がなされるまで何千年という単位で歳月が流れます。その後、エジプトに下ったイスラエル人たちが再びパレスチナに戻って来るまでに数百年。その人々がやがて王国を建てて国を統一し、その国が分裂して、ついには外国の支配を受けるまでに数百年。さらにその後、イエス・キリストがお生まれになるまでに数百年。そのキリストが救いのために必要な条件をすべて整えてから、約束され救いの完成を迎えるまで、既に二千年近い歳月が流れています。そして、救いの完成まであとどれくらい時を待たなければならないのか、誰にも答えることはできません。ただ、救いの完成がいつ訪れてもおかしくないほど、すぐにも起こりうる出来事である、ということだけは知らされています。
さて、こうして救いの歴史を概観してみると、じれったく感じられてしまうかもしれません。自分が生きているうちに救いが完成し、あらゆる悩み苦しみから客観的に完全に解放されるのでなければ、意味がないと思う人も多いことでしょう。そして、そう思うのは当たり前のことと言えるかもしれません。
しかし、どんなことにも時間が必要なように、救いが完成に至るのも、決して瞬時におこる出来事ではないということです。それは神の無能力さから来ているのではなく、神の罪人に対する深い忍耐と憐れみによるということです。もし、神に憐れみも忍耐もなければ、アダムとエバが罪を犯した瞬間に、神は罪を清算して新しい世界を造ることもできたはずです。しかし、それでは誰一人として救われることもなく、誰一人として神の憐れみと忍耐とを知ることもできなかったでしょう。
神は人間の思いをはるかに超えて、最もふさわしい仕方で人間の救いの歴史を計画し、導いておられます。
今学んでいるローマの信徒への手紙9章から11章にかけて記されている異邦人の救いの問題と、やがて回復するイスラエルの救いの問題も、そのような長い救いの歴史の中で捉えてこそ、その意味を理解できるものということができると思います。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ローマの信徒への手紙 11章25節〜36節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
兄弟たち、自分を賢い者とうぬぼれないように、次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい。すなわち、一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、こうして全イスラエルが救われるということです。次のように書いてあるとおりです。「救う方がシオンから来て、ヤコブから不信心を遠ざける。これこそ、わたしが、彼らの罪を取り除くときに、彼らと結ぶわたしの契約である。」福音について言えば、イスラエル人は、あなたがたのために神に敵対していますが、神の選びについて言えば、先祖たちのお陰で神に愛されています。神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼らの不従順によって憐れみを受けています。それと同じように、彼らも、今はあなたがたが受けた憐れみによって不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今憐れみを受けるためなのです。神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。「いったいだれが主の心を知っていたであろうか。だれが主の相談相手であっただろうか。だれがまず主に与えて、その報いを受けるであろうか。」すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。
きょう取り上げた個所は、9章以来パウロが論じてきたイスラエルの救いにかかわる問題の結論部分です。パウロが9章でこの問題を取り上げたときに、同胞に対する深い悲しみから筆を起こしました。このことは一見、パウロの個人的な関心から同胞であるイスラエル人の救いの問題を取り上げることとなったという印象を与えるかもしれません。確かにそれも事柄の一面であったでしょう。
しかし、きょうの結論部分の書き出しから考えると、パウロがイスラエルの救いの問題をローマの教会に宛ててあえて書き送ったのは、異邦人キリスト者にこそこの問題が持っている意味を理解してもらいたいと願っていたからではないかと思われます。
「兄弟たち、自分を賢い者とうぬぼれないように、次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい。すなわち、一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、こうして全イスラエルが救われるということです。」
神がキリストを通してお告げになる福音が、神の民であるイスラエル民族にではなく、今や異邦人によって受け入れられているということは、疑いようもない事実です。しかし、そのことは、異邦人がイスラエル人よりも優れた理解力を持っているということを意味するのではありません。そう誤解してしまったのでは、異邦人とイスラエル人との間にますます敵対心と軽蔑の溝が深まるばかりです。
神はそのようなことを願って、イスラエルをつまずかせ、異邦人を受け入れたのではありません。そうではなく、順序には前後があっても、イスラエルも異邦人も、ともに一つの神の民としてお救いになることを御計画していたのです。
ですから、結論を述べるにあたって、パウロはローマ教会の異邦人信徒たちに対して、「兄弟たち、自分を賢い者とうぬぼれないように、次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい」と願っているのです。
ここで、パウロは「秘められた計画」という言葉を使っていますが、その意味は啓示によって明らかにされる神の御計画という意味です。特に救いにかかわる御計画全体を指しています。神が啓示によって明らかに示されるまでは、謎に包まれているということです。実際パウロがここで使っている単語は、後に英語のミステリーという単語の語源になる言葉です。しかし、その意味は決して神秘に満ちた秘密の教えという意味ではありません。今や啓示によって明らかにされた、異邦人とイスラエルの救いにかかわる計画を指しているのです。
では、どのようなことが明らかにされたのでしょうか。
パウロは述べます。
「一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、こうして全イスラエルが救われるということです。」
実際、キリストを信じたユダヤ人もいるのですから、すべてのイスラエル人が心を頑なにしたわけではありません。しかし、一部という表現が正確かどうかは別として、確かにキリストを拒み続けているイスラエル人がいたことは紛れもない事実です。そして、そのおかげで異邦人に福音がもたらされたことも、今までパウロが述べてきたとおりです。しかし、そのイスラエルのかたくなさも、永遠に続くものではありません。それは異邦人全体に救いがいきわたるまでのことであり、その時に頑なになった一部のイスラエルの人たちも救いにあずかるようになるというのです。
もちろん、このところだけを取り上げて、パウロが万民救済説、つまり文字どおりすべての人が救われることを主張しているとは言えません。今まで論じてきた選びの議論と矛盾してしまうからです。
いずれにしても、パウロが言いたいことは、異邦人もイスラエルも自分たちの不従順に対する神の憐れみによってのみ、それぞれに救いの時を得るということなのです。
このことこそ、パウロがこの手紙を通して一貫して主張してきたことなのです。異邦人が神の憐れみによって救われたように、つまずいたイスラエルにも神の憐れみによる救いが残されているのです。