2011年10月20日(木)異邦人の救いと接ぎ木のたとえ(ローマ11:17-24)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
一つの幹から枝分かれして紅白の花を咲かせている、不思議な梅の木の盆栽をご覧になった方も多いのではないかと思います。これは接ぎ木という方法で人為的に作り出されたものです。
いったいいつの時代から接ぎ木という方法を人間が発見したのか分かりませんが、古代ギリシアの時代には既に接ぎ木は行われていたそうです。今日取り上げようとしている聖書の個所にも「接ぎ木」がたとえとして登場します。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ローマの信徒への手紙 11章17節〜24節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
しかし、ある枝が折り取られ、野生のオリーブであるあなたが、その代わりに接ぎ木され、根から豊かな養分を受けるようになったからといって、折り取られた枝に対して誇ってはなりません。誇ったところで、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。すると、あなたは、「枝が折り取られたのは、わたしが接ぎ木されるためだった」と言うでしょう。そのとおりです。ユダヤ人は、不信仰のために折り取られましたが、あなたは信仰によって立っています。思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい。神は、自然に生えた枝を容赦されなかったとすれば、恐らくあなたをも容赦されないでしょう。だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです。もしとどまらないなら、あなたも切り取られるでしょう。彼らも、不信仰にとどまらないならば、接ぎ木されるでしょう。神は、彼らを再び接ぎ木することがおできになるのです。もしあなたが、もともと野生であるオリーブの木から切り取られ、元の性質に反して、栽培されているオリーブの木に接ぎ木されたとすれば、まして、元からこのオリーブの木に付いていた枝は、どれほどたやすく元の木に接ぎ木されることでしょう。
パウロはローマの信徒への手紙の9章から、自分の同胞であるイスラエル民族の問題を取り上げてきました。そのことは、単にパウロ自身がユダヤ人であったので、この問題に特別な関心を寄せていた、ということではありません。もちろん、自分の民族の現在と将来について無関心でいる人はいません。パウロも同じように同胞のイスラエルについて深い関心をいだいていたことは疑いようもありません。しかし、この問題を異邦人が多くいたであろうローマの教会に宛てた手紙の中で、かなりの分量を割いて論じているのには、この問題が単にイスラエル民族の問題にとどまらない面があるからでしょう。
今日取り上げる個所でも、先週から引き続いてパウロは異邦人とイスラエルとの関係を論じます。
前回までの議論によれば、イスラエルがつまずいてしまったのは、異邦人が救われるための、神の特別な摂理であったということでした。しかも、異邦人が救われることで、イスラエルに妬みを起こさせ、幾人かでもイスラエルの人々を救いにあずからせることができたら、とパウロは考えたのでした。
ただ、その場合、さらに二つのことを言い加えなければなりません。一つは、イスラエルのつまずきと異邦人の救いが、神の摂理であったとしても、そのことはイスラエルが福音を拒んだことに対してまったく責任がないということではありません。むしろ神は人間の罪さえも用いて救いの計画を実現へと導くのです。
もう一つは、こうしてキリストにつまずいてしまったイスラエルですが、神はこのイスラエルを完全に倒そうとはお考えになっていないということです。神の民としてのイスラエル民族の救いの約束を、神は反故にされたわけではありません。
さて、イスラエルについて二つの点を確認しましたが、救いに与った異邦人についても、言うべきことがあります。パウロは救いに与った異邦人を接ぎ木された枝に例えて、彼らが誇ることのないようにしています。
接ぎ木をするために、もとの枝が切りはらわれたとしても、接がれた枝は、取り払われた枝に対して、特別な優位性があるわけではありません。たとえあったとしても、枝が栄養分を得ているのは、台木に根っこがあるからです。接ぎ木された枝が根っこを支えているのではなく、根が幹を支え、枝に豊かな栄養分を与えているのです。
それと同じように、異邦人が神の民に連なるものとなったとしても、それはつまずいたイスラエルよりも優れていたからではありません。まして、もとからあった台木が、異邦人が接ぎ木されることで支えられたというのでもないのです。このことは、この手紙を通してパウロが一貫して主張してきた、「行いではなく、恵みにより信仰を通して救いが与えられる」という教えを思い返せば、まさにその通りのことです。異邦人が接ぎ木されたのは、彼らの行いが優れていたからではなく、まったくの恵みにより、信仰を通して与えられた救いなのです。
パウロは異邦人キリスト者に対して、今置かれているこの立場のことで、決して思い上がらないようにと戒めています。むしろ、恐れさえ抱くようにと勧めます。
なぜなら、もとからあった枝が不信仰のゆえに取り去られたのであれは、あとから接ぎ木された野生の枝が不信仰に陥ったときには、もっと容赦なく取り去られてしまうことは明らかだからです。不信仰のゆえにキリストにつまずき、不信仰のゆえに切り取られてしまったイスラエルに対して、少しでも優越感を抱くとすれば、それは神の慈しみを忘れた、傲慢の罪にほかなりません。むしろ、救うに値しない自分を救ってくださった神の恵みと慈しみに感謝し、つまずいたイスラエルと同じように不信仰に陥る弱さを、自分もまた内面に秘めていることを恐れをもって自覚する必要があるのです。
さて、パウロは異邦人に対して、自分の今置かれている立場を誇らないようにと注意を促したあとで、再びイスラエルの救いの可能性について語っています。接ぎ木の話であれば、取り去られた枝は、捨て置かれて枯れていくだけです。しかし、パウロはつまずいたイスラエルを、決して滅びに向うために取り去られた枝だとは考えていません。
ちょうど、前回取り上げた個所でも、パウロは、イスラエルがつまずいたのは、異邦人が救われるためだったと言いつつ、「彼らの罪が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのであれば、まして彼らが皆救いにあずかるとすれば、どんなにかすばらしいことでしょう」(11:12)、「もし彼らの捨てられることが、世界の和解となるならば、彼らが受け入れられることは、死者の中からの命でなくて何でしょう。」(11:15)と語って、イスラエルの回復の希望を語っています。
同じように、パウロはイスラエルが復帰して救われる可能性を今回もこう語ります。
「もしあなたが、もともと野生であるオリーブの木から切り取られ、元の性質に反して、栽培されているオリーブの木に接ぎ木されたとすれば、まして、元からこのオリーブの木に付いていた枝は、どれほどたやすく元の木に接ぎ木されることでしょう。」
神はご自分の国の民として、イスラエル民族だけをお選びになったのではなく、この民族を通して、あらゆる民族の人々が救いの祝福にあずかるようにとされたのです。そして、キリストにつまずいてしまったイスラエルにも回復と救いの祝福にあずかる希望があるのです。