2011年9月22日(木)民族を超えた救い(ローマ10:5-13)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 どの民族もそうだと思いますが、誰でも自分たちの民族に対して特別な誇りを持っているものです。自分が属する民族に対して誇りを抱くこと自体は、決して悪いものではありません。しかし、自分の民族を誇りに思うことは、しばしば、他の民族をさげすんだり、場合によっては他の民族を自分たちの支配下に置こうとしたりする思いを助長してしまいます。
 また、そうした誇りが民族の宗教と強く結びついている場合には、自分自身を絶対化し、もはや自分たちを相対化して考えることすら難しくさせてしまいます。

 人間的な言い方ですが、キリスト教はユダヤ教を背景としている点で、民族の誇りと強く結び付いてもよさそうな気がします。しかし、初期のころから世界宗教にふさわしい発展を遂げてきました。それは本家のユダヤ教が民族と強く結び付いていたことへの反動として、キリスト教が脱民族主義の道を歩んでいったということで説明されるべきことがらではありません。
 むしろ、キリスト教の持っている救いに対する教え自体が、一つの民族にとどまり得ない要素を持っていたからでしょう。そして、これこそが神が御計画していた救いのプロセスだったのです。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ローマの信徒への手紙 10章5節〜13節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 モーセは、律法による義について、「掟を守る人は掟によって生きる」と記しています。しかし、信仰による義については、こう述べられています。「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。また、「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。では、何と言われているのだろうか。「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。

 前回の学びでは、十字架のキリストのつまずいたイスラエルについて学びました。残念ながらどんなに熱心であったとしても、このキリストを離れてはまことの神を正しく知ることができません。イエスを救い主キリストと信じることができないイスラエルの民は、自分の力で神の義を満足させる、という発想から解放されることが出来なかったのです。パウロ自身の言葉でいえば、彼らは「神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです」(10:3)。

 きょう取り上げた個所は、その続きです。ここでは、旧約聖書の言葉を引用しながら、キリストを信じる信仰による救いが、一民族としてのイスラエルの枠を超えて、あらゆる民族に及ぶ道が開かれたことを力強く語っています。このようにして、神の約束は、一民族としてのイスラエルではなく、キリストを信じる神の民としてのイスラエルのうちに生き続けているのです。

 さて、順を追って、もう少し丁寧に見ていきましょう。

 パウロはまず、レビ記18章5節を引用して、こう言います。「掟を守る人は掟によって生きる」。

 確かにこの言葉は律法の言葉であって、真理を言い表しています。既にパウロは2章13節で、「律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされる」と述べました。それは裏を返せば、律法の規定を完全に守れない者は、神の御前に義とされることはないということです。このことについては、すでにパウロがこの手紙の中で十分論証してきたことです。パウロにとっては、「行いによる義」の道は、アダムの堕落以降、人間にとって閉ざされていることは自明のことでした。ただ、まことの人であり、まことの神であるキリストだけがわたしたちに代わって神の義を満足させることができたのです。
 しかし、残念なことに、このキリストを肉のイスラエルは拒み続けているために、神の義に至る道を見失っているのです。

 さて、信仰による義についてはどうでしょう。パウロは同じ律法の書である申命記30章から自由に引用しながら、こう述べます。

 「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。また、「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。

 申命記本来の文脈では、神の言葉である律法が、遠く及ばないところにあるのではなく、まさにあなたがたの身近にあるのだ、ということを述べた個所です。それは裏を返せば、律法の戒めが手の届かない遠くにあるので、守ることができない、という人間の言い訳を封じる言葉でもあります。もちろん、ここには人間の言い訳を許さない神の厳しさというよりは、御言葉を手の届くところにくださった神の恵みの方が強調されているのでしょう。

 結果として、その戒めを守らなかったのですから、イスラエルの罪は大きいということになります。

 けれども、この同じ申命記の言葉を引用しながら、パウロはこの言葉をキリストと結び付けて理解しなおしています。

 父なる神の御心をもっともはっきりと知らせてくださるという意味で、キリストこそ神の言葉であると言われます。キリストは父なる神のもとからこの地上にやって来られ、しかも十字架の死にいたるまで、救いのために父なる神の御心を成し遂げてくださったお方です。そう言う意味では、キリストこそ神の御心にかなう救いの道をもっとも身近でわたしたちに示してくださったお方です。
 そのキリストを抜きにして、救いのために自分で天に上ろうと考えることも、底なしの淵に下ろうとすることも、そういう考えそのものが不遜な考えです。それではキリストの救いを無駄にしてしまうことになります。肉のイスラエルはキリストを拒むことで、まさにそうした不遜な態度を表してしまいました。

 しかし、神が求めていらっしゃることはそういう態度ではなく、キリストによって示されている神の救いを信仰によって素直に受け入れることです。

 この福音の言葉は、決して遠くにあるものではありません。まさに「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある」のです。わたしたちに求められていることは、口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じることです。そうすることで、キリストが成し遂げてくださった罪の赦しと神の義とを自分のものとすることができるのです。
 しかも、それは民族としてのイスラエルだけがあずかることができる救いではありません。あらゆる民に開かれている救いなのです。

 「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。