2011年9月8日(木)神の憐れみと異邦人の選び(ローマ9:19-29)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
人間の堕落と救いの問題を究めようとすれば、どうしても神の存在を脇へ置いて考えることはできません。そして、神の存在と向き合おうとするならば、神についてすべてを知り尽くすことができると思う傲慢な考えを捨てなければなりません。有限である人間は無限である神を把握することができないのですから、人間が神について知ることができるとすれば、それは神がわたしたちに啓示してくださった事柄に限られます。
わたしたちは今、パウロが書いた手紙を手掛かりに、イスラエルと異邦人の救いの問題を学んでいます。そこに記されていることは、人間の論理で突き詰めると、決定論や宿命論に陥ってしまうか、それを避けようとして、万民救済説に偏ってしまうかどちらかです。パウロの手紙を読み進めるには、神が啓示してくださる限りのことにとどまる勇気と謙遜も必要です。そのことを念頭において学びを続けたいと思います。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ローマの信徒への手紙 9章19節〜29節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
ところで、あなたは言うでしょう。「ではなぜ、神はなおも人を責められるのだろうか。だれが神の御心に逆らうことができようか」と。人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。造られた物が造った者に、「どうしてわたしをこのように造ったのか」と言えるでしょうか。焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないことに用いる器に造る権限があるのではないか。神はその怒りを示し、その力を知らせようとしておられたが、怒りの器として滅びることになっていた者たちを寛大な心で耐え忍ばれたとすれば、それも、憐れみの器として栄光を与えようと準備しておられた者たちに、御自分の豊かな栄光をお示しになるためであったとすれば、どうでしょう。神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました。ホセアの書にも、次のように述べられています。「わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼び、愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。『あなたたちは、わたしの民ではない』と言われたその場所で、彼らは生ける神の子らと呼ばれる。」また、イザヤはイスラエルについて、叫んでいます。「たとえイスラエルの子らの数が海辺の砂のようであっても、残りの者が救われる。主は地上において完全に、しかも速やかに、言われたことを行われる。」それはまた、イザヤがあらかじめこう告げていたとおりです。「万軍の主がわたしたちに子孫を残されなかったら、わたしたちはソドムのようになり、ゴモラのようにされたであろう。」
前回の学びで、パウロはイスラエルの選びの問題を取り上げました。パウロがイスラエルの選びの問題に触れるのは、イスラエルに対する神の約束が無効になってしまったのではないことを示すためでした。
確かに民族としてのイスラエルの人すべてが、ナザレのイエスを救い主キリストとして受け入れたわけではありませんでした。そう言う意味では、一見、イスラエルに対する約束は、キリストを拒んだ者たちによって阻まれているように感じられます。
しかし、旧約聖書の歴史が示す通り、神は自由で主権的な選びによって、神の約束を受け継ぐ者たちを選んで来られたのですから、神の民としてのまことのイスラエルは今も存在し、彼らによって神の約束は受け継がれているのです。
きょう取り上げた個所は、この選びを巡る議論を受けての個所です。パウロにとっては、ここで論ずることがらは、反論する者たちに対する弁明であって、けっして中心的な問題ではありません。
では、どのような反論に対して、パウロは筆をとっているのでしょうか。
神の自由で主権的な選びに対して、もし、それを受け入れるとするならば、なお神が我々を責めるのはおかしなことではないか、という反論です。もし、神が自由で主権的な方法で、ある人を救いに選び、ある人を救いに選ばなかったとすれば、人間には自分の生き方に対するどんな責任もないはずだという主張です。それは裏を返せば、人間には自分の生き方に対する責任があるはずだから、神の絶対的な主権も選びもあり得ないとする考えにも発展します。
もちろん、このようなことを主張する具体的な反対者たちがローマ教会の周辺にいたのかどうかは分かりません。パウロ自身が反論を予想して自問自答しているとも考えられます。あるいは、長年の宣教活動の中で、繰り返し寄せられた典型的な反論の一つなのかも知れません。いずれにしても、パウロはこの反論にこう答えます。
それは、造られた存在である人間が、造り主に対して主張すべき事柄ではない、というものです。
パウロはこのことを身近な事柄を引き合いに出して説明します。その身近な例とは、陶器を作る者の話です。陶器には用途に応じで色々な種類がありますが、もとは同じ土から作られます。陶器を作る者は、自由に同じ土から選んで、貴い用途の器を作ったり、貴くない用途のものを作ったりします。そうするのは、陶器を作る者の創意によるものです。出来上がった器が、自分を造った人に対して文句の一つも付けないのは当然のことです。
もちろん、陶器と人間を同じに扱うことはできませんから、パウロのこの説明にも納得がいかない人はいることでしょう。ただ、パウロがここで主張したいことは、人間も陶器も同じだということではなく、造った者と造られたものとは、同じではないということなのです。どんなに頑張ったとしても、創造者と被造物は対等にはなりえない関係なのです。「神のやり方はおかしい。自分が神ならこうする」と考える、人間の思いあがった考えこそ改めるべきなのです。
ところで、パウロは、この問題にこれ以上深入りすることを避けています。なぜなら、この議論はどこまで行っても平行線になってしまうからです。
パウロはまことの神の民であるイスラエルの選びを、イスラエル民族の中からの選びとは考えないで、今や異邦人の中からも、神はまことの神の民であるイスラエルを選ばれた、と語ります。
22節以下のパウロの言葉は、難解な言葉ですが、要するに、神は一方では「怒りの器」とした者たちを寛大な心で忍耐しておられ、他方で「憐れみの器」とされた者たちにご自分の豊かな栄光をお示しになっておられるということです。ただ、パウロは具体的に誰が「怒りの器」であり、誰が「憐れみの器」であるのか、ということは語っていません。それは神だけがご存じのことだからです。
ただ、大切なことは、すべての異邦人が自動的に「怒りの器」なのではないということです。神は異邦人の中からも「憐れみの器」として召しだしてくださっているということなのです。
神の選びを、神の勝手気ままな理不尽と受け取らないで、このような選びの中に、人間に対する神の忍耐と憐れみと栄光とを見出すことが大切なのです。