2011年9月1日(木)イスラエルに対する深い悲しみ(ローマ9:1-5)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
聖書の中で最も理解しにくい点の一つは、神の主権と人間の自由意志の関係であるように思います。神の主権だけを強調しすぎると、人間は意志のないロボットのように、定められたプログラムにしたがって動くしかない存在のように思われてしまいます。
反対に人間の自由意志だけを強調しすぎると、今度は神は人間の前では限られたことしかできない無能な者になってしまいます。というのも、神が救いの計画を立てても、人間が自由な意志でその計画を阻むことになるからです。
キリスト教では、神の主権も人間の自由意志も、どちらも一方が他方を制限したりはばんだりすることができるとは考えてはいません。もちろん、人間的な目から見れば、そう見えることもあるかも知れません。しかし、現実にはそうではないのです。
さて、パウロにとっては同胞イスラエルの救いについて思いを巡らせたときに、どうしてもこの神の自由で主権的な選びの問題を避けて通ることはできませんでした。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ローマの信徒への手紙 9章6節〜18節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
ところで、神の言葉は決して効力を失ったわけではありません。イスラエルから出た者が皆、イスラエル人ということにはならず、また、アブラハムの子孫だからといって、皆がその子供ということにはならない。かえって、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる。」すなわち、肉による子供が神の子供なのではなく、約束に従って生まれる子供が、子孫と見なされるのです。約束の言葉は、「来年の今ごろに、わたしは来る。そして、サラには男の子が生まれる」というものでした。それだけではなく、リベカが、一人の人、つまりわたしたちの父イサクによって身ごもった場合にも、同じことが言えます。その子供たちがまだ生まれもせず、善いことも悪いこともしていないのに、「兄は弟に仕えるであろう」とリベカに告げられました。それは、自由な選びによる神の計画が人の行いにはよらず、お召しになる方によって進められるためでした。「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と書いてあるとおりです。では、どういうことになるのか。神に不義があるのか。決してそうではない。神はモーセに、「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ」と言っておられます。従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです。聖書にはファラオについて、「わたしがあなたを立てたのは、あなたによってわたしの力を現し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである」と書いてあります。このように、神は御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされるのです。
前回は、パウロの同胞に対する深い悲しみについて学びました。というのは、パウロにとって神の民であるイスラエルの同朋が、キリストを拒み、約束されたものを受け取ることができない、という事態をどのように受け止めるべきなのか大きな課題であったからです。
そして、この問題を考えていくうえで、神の選びの問題を避けて通ることができないとパウロは悟りました。
「イスラエルに対する神の言葉は無効になってしまったのだろうか」という暗黙の問いに対して、パウロは確信をもって「そうではない」と答えています。
イスラエルのことを考える場合、パウロは、イスラエルの血肉による子孫と、まことの神の民であるイスラエルとを区別していました。もしこの区別がないとすれば、イスラエルに対する神の言葉はほとんど効力を失っていると認めざるを得なくなってしまいます。既に見てきたように、民族としてのイスラエルはキリストを生み出した民族ですが、同時にその大半が神から遣わされてきたキリストを拒絶しているからです。
しかし、神の約束がまことの神の民であるイスラエルに対する言葉であるとすれば、その約束の言葉は決して無効になったのではないことは明らかです。まことの神の民に対しては、約束の言葉は今も生き続けて効力を持っているからです。
けれども、そうだとすれば、血肉によるイスラエルとまことの神の民であるイスラエルとを区別するものは何か、どのような原理がそこにあるのかを明らかにしなければなりません。
そこで、パウロはそのような区別をもたらした神の自由で主権的な選びについて言及します。
パウロはまずアブラハムにさかのぼってこのことを考えています。アブラハムの身から出た子孫が、すべてアブラハムの子供となったのか、というと、そうでないことは旧約聖書に明らかに記されているとおりです。神は、ハガルとの間に生まれたイシュマエルではなく、サラとの間に生まれたイサクを約束の子とされました。肉によって生まれた子がみな神の子孫なのではなく、約束によって生まれた子こそが神の子孫なのです。そして、この約束は神の自由で主権的な選びから生じたものです。
もっとも、同じアブラハムを父に持っているとしても、イシュマエルとイサクは母親が異なっていますから、選びの根拠は神の自由な主権ではなく、母親の血筋の違いだと言われてしまうかもしれません。
そこで、パウロはもう一人の例をあげます。それは同じ父親、同じ母親から生まれた双子、エサウとヤコブの場合です。血筋ということでいえば、この二人を区別するものは何もないはずです。しかし、ヤコブは神の約束を受け継ぐ者として、後のイスラエル十二部族を生みだしていきますが、エサウの方は生まれる前から、神の国の約束と関りのない者とされます。
そう言う意味で、まことの神の民であるイスラエルに対する約束の言葉は、どんな意味でも無効になってしまったことはないのです。神の約束によって生まれたまことのイスラエルは、神の約束を受け継ぎ、神から遣わされたキリストを信じるからです。
しかし、それでは、このような神の自由な選びは、不公平ではないかという疑問がただちに頭をよぎります。けれども、パウロはそれに対して、神ご自身の言葉を引用しながらこう答えています。
神はモーセに、「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ」と言っておられます。従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです。
パウロはこの神の自由な選びを、不公平とは受け取らず、むしろ、罪人に対する神の憐れみと受け止めたのでした。それは、ちょうど信仰による義と同じように、人間の側の行いや努力によるものではなく、ただ、神が憐れみと慈しみをもって選んでくださったのです。
そもそも、罪人である人間には、神の選びを勝ち取るだけの功績など何もないからです。神の憐れみと慈しみだけが、肉によるイスラエルから神の民であるイスラエルを選び分けているのです。