2011年8月25日(木)イスラエルに対する深い悲しみ(ローマ9:1-5)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
世界のすう勢とは別に、残念ながら日本では今でもキリスト教は少数派の宗教です。
使徒パウロがローマの信徒への手紙を書いた時代、ユダヤ人でありながら、キリスト教を信じる人たちの数は、やはり少数派であっただろうと思います。もとより、当時のユダヤ人社会全体の人口がどれくらいあったのか分かりませんので、正確なことは言えませんが、たとえ、使徒言行録の2章41節が報告する通り、その日に三千人の人々が洗礼を受けたとしても、ユダヤ人社会全体からすれば、その数はそれほど多くはなかっただろうと想像します。そもそも、キリスト教が一気に多数派を占めたのだとすれば、パウロの憂いもそれほど大きくはなかっただろうと思います。
もちろん、パウロが憂いているのは、自分の同朋が単にキリストを拒絶しているということではありません。その同朋が、他ならない神の民、イスラエルであるという点です。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ローマの信徒への手紙 9章1節〜5節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
わたしはキリストに結ばれた者として真実を語り、偽りは言わない。わたしの良心も聖霊によって証ししていることですが、わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。彼らはイスラエルの民です。神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。先祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストも彼らから出られたのです。キリストは、万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神、アーメン。
ローマの信徒への手紙は9章から、新しいテーマに入ります。それは神の民である「イスラエル」の問題です。この新しいテーマは9章から11章までの三つの章で扱われます。
もっとも、新しいテーマとは言いましたが、決して取って付けたように、ここで突然このテーマが登場するわけではありません。確かに「イスラエル」という言葉がこの手紙の中で登場するのは、この9章が初めてです。しかし、今まで見てきたとおり、「福音」についてパウロが語るときには、いつも「律法」のことがパウロの念頭にありました。そして、「律法」のことが語られる時には、神の律法を授かった神の民であるイスラエルのことがいつも頭にありました。
既に見てきたとおり、パウロはローマの信徒への手紙の2章から3章にかけて、ユダヤ人と律法の問題を取り上げて、他ならないこの律法を手にしたユダヤ人自身が、律法を守るどころか律法を破っている事実を指摘します。そして、そう指摘しながら、「では、ユダヤ人の優れた点は何か」と自問自答しています。
確かにパウロにとっては、イスラエル民族のことをまるで存在しなかったかのように扱うことはできません。それは、単に自分がイスラエル民族の出身だという自分の誇からくるものでは決してありません。むしろ、神によってイスラエルが立てられ、神の民として約束をいただいている、その神の約束の言葉はどうなったのか、という純粋に信仰的な思いから、「イスラエル」の問題は必然的に問われるべき大きな課題なのです。
さて、パウロはクリスチャンに約束されている栄光の希望が、どんなものにも奪われることがない不動のものであることを8章の結論として述べた後、さっそくイスラエルの問題に取りかかります。
なるほど、パウロはこの手紙の冒頭部分で自己紹介しているとおり、福音のために選びだされ、特に異邦人を信仰へと導くために立てられた使徒です。そして、今までの手紙の論調の中にはしばしばユダヤ人に対する強烈な批判もありました。そういう流れから考えると、ユダヤ人たちに愛想を尽かしているような印象をパウロに対して抱くのも当然かもしれません。しかし、きょう取り上げた個所には、イスラエル民族を心から憂えるパウロの心の痛みがあからさまに表明されています。それはパウロ自身の言葉よれば、「深い悲しみ」であり「絶え間ない痛み」です。その深さ大きさに関して言えば、測りつくすことのできない悲しみであり、継続性という点では、ほっと息をつく余裕さえも与えないほどに絶え間のない痛みなのです。それが、パウロがずっと抱き続けてきた神の民であるイスラエル民族の問題です。
しかし、このように大げさとも思える表現で、この問題が自分に与える悲しみと痛みとをパウロは語りますが、パウロはこのことが決してユダヤ人の目を意識したうわべだけの言葉ではないことを、念を入れてこう書き記しています。
「わたしはキリストに結ばれた者として真実を語り、偽りは言わない。わたしの良心も聖霊によって証ししていることです」
パウロは神の御前で、良心に恥じるところがない真実を語っていることを強調しています。
その同朋に対する思いの大きさは、「肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよい」とさえ思うほどに、真実なものでした。せっかくキリストを通していただいた救いを、あっさり放棄してもよいなどと考えることは、普通は考えてはならないことです。しかし、パウロにとっては同朋イスラエルの問題はそれ程に真剣に考えなければならない問題でもあったのです。
では、なぜ、こうもイスラエルの問題にパウロはこだわるのでしょうか。そのイスラエルについて、パウロはこの民の特殊性をこう列挙します。
「神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。先祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストも彼らから出られたのです。」
クリスチャンが手にしている特権の大半は、本来はイスラエル民族に約束されているものでした。中でも、自分たちの民族からキリストが出た、という光栄は他のどの民族にも与えられていないものです。その最大の特権をいただきながら、キリストを拒絶するイスラエルとは、いったいどういうことなのでしょうか。それこそが、パウロの憂いです。
ところで、9章5節の翻訳は何通りかが知られていますが、特に新共同訳聖書と口語訳聖書とでは、全く違う解釈が示されています。
ここでは、イスラエル人の優れた点をパウロは列挙していますが、その最後にキリストもまたイスラエルから出たことを挙げて、パウロは神をほめたたえているとも理解できます。口語訳聖書はそう理解しました。しかしまた新共同訳聖書のように、肉によればキリストはイスラエルの出身ですが、ただの人間なのではなく、そのキリストは同時に神であるということを言おうとしているようにもとれます。
パウロが頌栄の言葉として使う決まり切った言い方からすれば、口語訳の理解には少し無理があるように思います。また、この手紙よりも前に書かれたフィリピの信徒への手紙の2章6節にはキリストの神としての性質について明らかに述べられていますから、新共同訳の理解がパウロ的ではないとは言えないでしょう。
まことの救い主であり、万物の上にいます神であるキリストを捨てたところにこそ、イスラエルの大きな罪の問題があるのです。しかし、同時にこの民からキリストが生まれた事実が持つ意味もまた重大な事柄なのです。