2011年8月18日(木)輝かしい勝利(ローマ8:31-39)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
キリスト教を信じる上で大切なことは、救いの確信をしっかりと持ち続けることです。救いの確信というのは、自分が確かに救われているという揺るがない思いです。
ところが、たいていの人にとって、自分が救われているなどと思うことは尊大なことのように思われます。確かに、自分の力で救いを達成したと思いあがることが救いの確信であるとすれば、これほど尊大なことはありません。
しかし、聖書が言う救いの確信はこれとは全く違ったものです。神が、救いに値しないわたしを、キリストの義のゆえに、恵みとして救ってくださったという確信です。神がそのようにわたしの味方となってくださったのですから、この神の愛からわたしを引き離すものは何もないという確信です。
まさにきょう取り上げようとしている個所は、信仰によって義とされた者たちに約束されている輝かしい勝利が、どれほど確かなものであるのかを書きしるしています。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ローマの信徒への手紙 8章31節〜39節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。「わたしたちは、あなたのために一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。
きょう取り上げようとしている個所は、8章を締めくくる言葉であると同時に、今まで論じてきた信仰によって義とされることから導き出される結論を述べた個所です。
そもそも信仰による義の問題が論じられる背景には、人間の罪の問題がありました。罪は人類に死をもたらし、すべての人間は罪と死との束縛から逃れることができない状態でした。その上、神の御心を明らかにし、義へと人を導くはずの律法は、罪人である人間にとっては、返って、その罪が指摘され、律法を落ち度なく守らなければ断罪されるという重荷を課するものでした。
そのような境遇にある人間に対し、「キリストを信じて義とされる」という教えだけが、罪と死と律法の重荷から人間を解放する道筋を示すことができるのです。そして、信仰によって義とされた者がいただく恵みを、パウロは5章の初めにこう明らかにしました。
「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。」(5:1-2)
先週取り上げた8章でも、パウロは信仰によって義とされたクリスチャンがあずかる栄光についてこう述べています。
「神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。」(8:30)
では、信仰によって義とされ、このようにして得た栄光回復への希望は、決して失われることのない確かなものなのでしょうか。誰かがやってきて「残念ながらあなたは不合格になりました」という一言で取り消されてしまうようなものなのでしょうか。あるいはサタンの激しい揺さぶりによって、再び奪い去られてしまうような危うい希望なのでしょうか。あるいはまた、わたしたちの弱さを取り上げて、再び断罪しようとする謀によって、もろくも崩れ去ってしまうような希望なのでしょうか。
けっしてそうではありません。
まず第一に、神ご自身がわたしたちの側に、味方として立ってくださっている、という厳然とした事実を挙げることができます。かつては罪のために敵対していた神が、今は味方となってくださっているのです。いえ、罪のために神と敵対していたわたしたちを、キリストのゆえに赦し、和解し、受け入れてくださっているのです。
では、ほんとうに神はわたしたちの味方でしょうか。どうしてそう確信できるのでしょう。パウロはこう述べます。
「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」
神がわたしたちの味方である最大の証拠は、わたしたち罪人のために御子イエス・キリストをこの世にお遣わしになり、わたしたちの罪のために御子をも惜しまず十字架の死に引き渡された、という事実に鮮明に表れています。
審判者である神が、そのようにして罪人であるわたしたちを、義としてくださったのですから、誰もわたしたちを神に訴えることはできないのです。そればかりか、御子をも惜しまず死に引き渡された神は、神の国と終末の栄光をもわたしたちにお与えになろうとしていらっしゃるのです。
この将来あらわされるはずの栄光を確かに手にすることができる第二の理由は、復活の主イエス・キリストが神の右にいて、わたしたちのために執り成してくださっているからです。ですから、二度と誰もわたしたちを罪に定めて、約束された栄光を奪うことはできません。
しかし、キリストを信じ受け入れたパウロには、次々と襲う苦しみも現実にはありました。艱難。苦しみ。迫害。飢え。裸。危険。剣。どれもキリストを宣べ伝えるパウロを襲い、パウロの宣べ伝える希望をくじこうとするものばかりです。しかし、そのどの一つとして、キリストの愛からわたしたちを引き離すことはできないとパウロは確信します。キリストの愛を確信し、キリストが既に勝利をもたらしていることを確信しているからです。
信仰によって義とされ、神の子どもとされた者を、主キリスト・イエスによって示された神の愛から引き離すことは、どんな被造物にもできないのです。それほどに確かな救いが約束されているのです。