2011年7月28日(木)霊に従って歩む生き方(ローマ8:1-11)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
キリスト教の話をしていると、必ずと言ってよいくらい誰か一人くらいから、こんな言葉が返ってきます。
「わたしはとても救われるような人間なんかじゃありません」
しかし、その言葉には二通りの意味があるように思います。一つは遠まわしに、キリスト教の話はもうそれぐらいにしてほしい、これ以上わたしに話しても無駄だ、という意味で、「わたしはとても救われるような人間なんかじゃありません」と、角が立たないようにやんわりと断っているのです。
しかし、別な人は、この言葉を文字通りの意味で使います。
遠回しな御断りの言葉の場合には、機会を改めるなり、アプローチの仕方を変えるなりして、キリスト教について語るのが良いでしょう。
けれども、まじめに自分が救われるに値しないと思っている人だとすれば、その人こそ救いに近いのだと思います。なぜなら、聖書によれば、すべての人は罪を犯したために栄光を受けるに値しないものとなっているのですから、そう自覚できるのであれば、その人こそ自分の救いの必要性に誰よりも気がついているということができるからです。救いの必要性を理解していながら、しかし、自分が救われるに値しないと思うのは、一見相反することのように思われます。しかし、この矛盾をこそ、神はキリストを通して解決してくださるのです。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ローマの信徒への手紙 8章1節〜11節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、”霊”は義によって命となっています。もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。
パウロは7章6節で「しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、”霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです」と述べました。しかし、今まで学んできた通り、「”霊”に従う新しい生き方」についてのテーマは8章に入るまでいったん保留にしたまま、パウロは「罪と律法の問題」や「内在する罪の問題」を先に取り扱ってきました。きょうの個所で再び霊に従う新しい生き方についてのテーマが取り上げられます。
8章1節は「従って」という言葉で書き出されますが、この「従って」という結論は、直前の7章最後の言葉とは直接うまく結びつきません。むしろ、7章6節までに述べたことに直接関係しています。そこまでの流れの中で、パウロは次のことを明らかにしました。クリスチャンはキリストと結びついて、律法と罪に対して死んだ者となっていること、そして、それとは逆に神に対して生きた者とされたということです。
このことを受けて、パウロは8章の冒頭で「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです」と述べているのです。
アダムの堕落以来、すべての人間は罪と死の支配のもとに置かれていました、しかし、今やキリストと結ばれた者は誰でも律法から解放され、罪がもたらす死から解き放たれているのです。しかし、罪と死の法則から解放されたということは、誰の支配をも受けなくなったということではありません。すでに6章で学んだとおり、罪に仕える奴隷から解放されたということは、神に仕えて義に至る僕となったということです。この8章では同じことを「肉ではなく霊の支配下にいる」という表現で表しています(8:9)
パウロによれば、「霊」と「肉」とは対立した概念で、「霊」が命をもたらすのに対して(8:2,6)、「肉」は死をもたらすものです(8:6)。かつては肉のアダムに属する者として罪と死の支配下に置かれていましたが、今やキリストによって霊の支配のもとに置かれているのです。
ところで、キリストと結ばれた者は、律法に対して死んだ者、律法から解放された者であると言われていますが、そのことは、律法によって罪の罰を宣告されないという意味であって、律法が示している神の御心に応えなくてもよいという意味ではありません。むしろ、霊の支配のもとにおかれ、霊に従って歩むことによって、律法が求めている「神の御心に従って生きよ」という要求が一層満たされるようになったのです。肉の思いの支配下にあるうちは、どんなにまことの命を願ったとしても、行き着くところは死以外の何ものでもありませんでした。神に喜ばれることも、神を喜ばすこともできなかったのです。
しかし、今や神はキリストの霊、ご自分の御子の霊をわたしたちの内にお与えくださっているのです。
8章の10節と11節は一見仮定のように読めるかもしれません。「(もし)キリストがあなたがたの内におられるならば…」「もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら…」
しかし、この場合の「もし」というのは、単なる仮定の上での話ではありません。この場合にはむしろ「〜なのだから」という意味に取った方がよいでしょう。
「キリストがあなたがたの内におられる【のだから】、体は罪によって死んでいても、"霊"は義によって命となっています。イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っている【のだから】、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。」
キリストと結ばれた者は、すでに霊の法則の下に置かれているのです。