2011年7月21日(木)内在する罪の問題(ローマ7:13-25)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 漫画の世界では、一人の人間をめぐって悪魔と天使が引っ張り合いをする場面がコミカルに描かれます。悪魔が人間を悪い方へと誘惑しようとすると、天使が耳元で悪いことをしてはいけないと忠告します。すると悪魔は負けじとばかり、人間をそそのかして、それが悪いことではないと正当化させようとします。こうして、天使と悪魔の引っ張り合いの末、とうとう悪魔の言いなりになってしまう人間の姿が面白おかしく描かれます。

 きょう取り上げようとする個所には、一見、この漫画のような善悪をめぐる葛藤が描かれています。しかし、パウロが記していることは、ただ単に中立で無垢な人間をめぐる善と悪の二元論の話ではありません。その点を心に留めながらきょうの個所を学んでいきたいと思います。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ローマの信徒への手紙 7章13節〜25節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 それでは、善いものがわたしにとって死をもたらすものとなったのだろうか。決してそうではない。実は、罪がその正体を現すために、善いものを通してわたしに死をもたらしたのです。このようにして、罪は限りなく邪悪なものであることが、掟を通して示されたのでした。わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。

 前回の学びでパウロは、律法自体が罪であるのか、という問に対して、「決してそうではない」ときっぱりと答えました。
 そのことを受けて、きょうの個所では、律法が罪ではないとしたら、善であるはずの律法が、善ではなく死をもたらすことになったのか、と問いかけます。それに対しても、即座に「決してそうではない」とパウロは答えます。
 パウロはすでに6章23節で、死は罪の支払う報酬であると述べているので、律法が罪でない以上、死は律法がもたらすものではないことは当然の結論です。ですから、ここでも、「罪が…わたしに死をもたらしたのです」とパウロははっきりと述べています。ただ、ここでパウロは、「罪が…わたしに死をもたらしたのです」と単純に述べないで、「罪がその正体を現すために、善いものを通してわたしに死をもたらしたのです」と述べて、善いものを通して姿を現す罪の邪悪さを指摘しています。

 パウロは律法が善であるばかりか、霊的なものであるとさえいいます。その場合の「霊的」というのは、律法が人間の知恵から生み出されたものではなく、その起源を神に負うものである、という意味です。律法は人間の英知を表明するものではなく、聖にして義なる神の御心を示したものです。

 それに対して、パウロは自分を肉に属する人であると述べます。「肉に属する」とは、「霊的な」に対応する言葉で、言い換えれば、神から離れた、罪の言いなりになっている自分です。その自分をパウロはこう描いています。

 「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。」

 このパウロの発言は、パウロが6章で述べてきたこととどう調和するのか、戸惑いを覚えます。なぜならパウロは、キリストと結ばれた者は、罪に対して死んだ者であって、もはや罪の中に生きることはできない、と述べているからです。また、「かつては罪の奴隷でしたが、今は…罪から解放され、義に仕えるようになりました」(6:17-18)とさえ述べているからです。

 では、パウロがここで語っている姿は、キリストの救いにあずかる前の自分の姿でしょうか。確かに救われる前の人間は、神の律法を守ることすらできないのが現実です。

 しかし、ここでパウロが告白していることは、単に神の律法を行っていない自分の姿ではなく、神の律法を行うべきことを知っていながら、それを行うことができない自分であり、また、そうした矛盾した生き方に苦しみを覚える自分の姿です。

 このことは、単に律法を行うことができない、救われる前の人間の姿とは異なります。すでに学んだとおり、罪の支配の下で生きる人間の姿は、1章18節以下にあるように、自分の欲しないことをしているのではなく、罪の要求と自分の思いが一致した、倒錯した生き方なのです。罪を罪として認識できない生き方です。あるいは、律法を守ることができないのに、律法を守っていると思い込む生き方です。

 ここに描かれるパウロの姿は、自分の罪と弱さを知っているという意味で、罪の中にどっぷりと浸かっていて、自分の罪深さを認識できない人間の姿とは明らかに違うものです。

 しかし、それにしても、6章で語られてきたことと、このパウロの発言は調和しがたいように感じられます。

 このことを理解するためには、聖書の中にある「すでに」と「まだ」の区別を知っておく必要があります。聖書は救いのプロセスを語るとき、信じたその瞬間にすべてが完成するとは語っていません。すでに成就した部分と、終末のときに完成される部分とがあることを語っています。

 確かに6章でパウロが語っているとおり、キリストに結ばれた者は、罪と死の法則から解放されたものです。しかし、それは原理的なことを語っているのであって、その原理が現実に適用されつつあるのが、救いの完成の途上にある今の私たちなのです。
 たしかに自分の現実の姿を知ることは惨めなことですが、しかし、「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」とパウロが語っているように、死に定められたこの体から、神はわたしたちを確実に救ってくださるのです