2011年7月7日(木)律法からの解放(ローマ7:1-6)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 「律法」という言葉は、聖書に馴染みのない人にとっては、ほとんど意味をなさない言葉だと思います。実際、「りっぽう」という言葉を耳で聞いたときに、すぐ頭に思い浮かぶのは「司法、行政、立法」の「立法」ではないかと思います。文字に書かれているのを見れば、それが「法律」という二文字の漢字をひっくり返して「律法」というのだということが分かります。しかし、それでも「法律」ではなく「律法」という単語をあえて使う意味は、字を見ただけでは分かるものではありません。

 ちなみに英語の聖書では「law」という単語が使われていますから、日本語訳聖書のように「法律」と「律法」を単語によって区別することはありません。日本語訳聖書があえて「律法」という単語を使っているのは、人間が制定した法律と神が与えた法とを明確に区別するためと思われます。

 さて、ローマの信徒への手紙の7章ではこの律法の問題が取り上げられます。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ローマの信徒への手紙 7章1節〜6節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 それとも、兄弟たち、わたしは律法を知っている人々に話しているのですが、律法とは、人を生きている間だけ支配するものであることを知らないのですか。結婚した女は、夫の生存中は律法によって夫に結ばれているが、夫が死ねば、自分を夫に結び付けていた律法から解放されるのです。従って、夫の生存中、他の男と一緒になれば、姦通の女と言われますが、夫が死ねば、この律法から自由なので、他の男と一緒になっても姦通の女とはなりません。ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。それは、あなたがたが、他の方、つまり、死者の中から復活させられた方のものとなり、こうして、わたしたちが神に対して実を結ぶようになるためなのです。わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました。しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、”霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。

 前回学んだ個所で、パウロは「わたしたちは、律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してよいということでしょうか」という問題を取り上げました。パウロがローマの信徒への手紙の中で「律法」についてたびたび取り上げるのには、明確な理由があります。

 このローマの信徒への手紙を書くにあたって、パウロはまずはじめに1章16節17節で大きな命題を掲げました。それはこう言うものでした。

 「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。」

 パウロがこのことを述べるときに、パウロの念頭には、この言葉に対立するもう一つの命題がありました。今、先ほどのパウロの言葉の中に出てくる「福音」を「律法」に、「信じる」を「行う」に、そして「信仰」を「行い」に読みかえると、パウロが何を言おうとしていたのかがよくわかります。つまり、パウロと対立する主張はこうなります。

 「わたしは律法を恥としない。律法は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、行う者すべてに救いをもたらす神の力だからです。律法には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで行いを通して実現されるのです。」

 このような主張がまったく意味をなさないことをパウロは今まで明らかにしてきました。なぜなら、罪ある人間にとって、律法を完全に行うことは現実に不可能だからです。ですから、神の義が現れるはずの律法を通して、返って人間の不義が明らかに示されるのです。

 では、神の義はどこに啓示されるのか、というと、パウロは3章21節以下でこう述べました。

 「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。」

 パウロが手紙を書くにあたって最初に述べた「福音には、神の義が啓示されています」とは、そう言うことなのです。

 ところで、パウロは福音に啓示された神の義について、「律法とは関係なく、…神の義が示されました」と述べました。そして、キリストを信じる者たちは今や「律法の下ではなく、恵みの下にいる」(6:14)と述べています。

 この「律法の支配の下にいない」という点をさらに取り上げて、詳しく述べているのがきょう取り上げた個所です。

 パウロはこのことを説明するにあたって、結婚の規定を定めた律法の掟をたとえとして持ちだします。

 モーセの律法によれば、結婚した男女が夫婦として律法の下に置かれるのは、どちらかが死ぬときまでのことです。どちらかが死ぬとき、もはやこの二人は夫婦ではなくなります。従って残された方の者は、結婚を定めた律法の掟によって拘束されることもなくなります。結婚の掟から解放されるとともに、新しい伴侶を得る自由も与えられることになります。

 このことをパウロは比喩として用いながら、キリストを信じる者と律法との関係を述べます。

 すでにパウロは6章4節で「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました」と述べましたが、それは「罪に対して死んだ」という意味でした。罪に対して死んだものとなったのですから、律法はもはや力を発揮しようがありません。従って罪に対して死んだものとなったということは、律法に対しても死んだものとなったのです。こうして、律法はもはやわたしたちを支配の下に置くことができなくなったのです。

 それと同時に、今や復活のキリストと結ばれる自由を手にしたのですから、キリストのものとされて、豊かな実を結ぶものとされたのです。

 このようにして、わたしたち信仰者は「文字に従う古い生き方ではなく、”霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっている」(7:6)とパウロは主張します。「”霊”に従う新しい生き方」については次の8章で詳しく展開されます。いずれにしても律法から解放された今は、新しい生き方に導かれているのです。