2011年5月26日(木)アブラハムと信仰による義(ローマ4:1-12)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
創世記に登場するアブラハムを、新約聖書は「信じるすべての人の父」と呼び(ローマ4:11)、「神の友」と呼んでいます(ヤコブ2:23)。それほどにアブラハムはユダヤ人のみならず、クリスチャンにとっても模範的な信仰者です。
きょうの個所でパウロはアブラハムを引き合いに出して、信仰によって義とされることの恵みを論証しています。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ローマの信徒への手紙 4章1節〜12節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
では、肉によるわたしたちの先祖アブラハムは何を得たと言うべきでしょうか。もし、彼が行いによって義とされたのであれば、誇ってもよいが、神の前ではそれはできません。聖書には何と書いてありますか。「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」とあります。ところで、働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべきものと見なされています。しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。同じようにダビデも、行いによらずに神から義と認められた人の幸いを、次のようにたたえています。「不法が赦され、罪を覆い隠された人々は、幸いである。主から罪があると見なされない人は、幸いである。」では、この幸いは、割礼を受けた者だけに与えられるのですか。それとも、割礼のない者にも及びますか。わたしたちは言います。「アブラハムの信仰が義と認められた」のです。どのようにしてそう認められたのでしょうか。割礼を受けてからですか。それとも、割礼を受ける前ですか。割礼を受けてからではなく、割礼を受ける前のことです。アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされた証しとして、割礼の印を受けたのです。こうして彼は、割礼のないままに信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められました。更にまた、彼は割礼を受けた者の父、すなわち、単に割礼を受けているだけでなく、わたしたちの父アブラハムが割礼以前に持っていた信仰の模範に従う人々の父ともなったのです。
今までの学びを通して、パウロは行いによる義を達成することは、罪人である人間には不可能であることを論証し、信仰によってのみ義とされる恵みが現れたことを告げました。
このことは、神の律法を守ることによって、その功績が義と認められると考えていたユダヤ人にとっては、当然、納得のいく議論ではありませんでした。
そこでパウロは、信仰の父として仰がれていたアブラハムを引き合いに出して、信仰による義についてユダヤ人たちに論証を試みます。
パウロはまず創世記15章に記された、アブラハムが神の約束を信じる場面の記事を引用します。
「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」(ローマ4:3=創世記15:6)
このときアブラハムには後継ぎとなる子供がおりませんでした。それにもかかわらず、子孫の数が天の星の数のようになるとおっしゃった主なる神の約束をアブラハムは信じたのでした。この信仰を神はアブラハムの義と認められたと聖書は証ししているのです。
この場合、信じること自体が一つの功績として数えられ、それに対する当然の報酬として「義と認められた」と誤解されるかもしれません。なるほど、この世の多くの宗教では、信じる心、信心こそが功徳であるように数えられがちです。
しかし、パウロはすぐ後でこう述べています。
「ところで、働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべきものと見なされています。しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます」
パウロによれば、信じることによって義と認められるということは、当然の報酬なのではなく、恵みであると言われます。なぜなら、報酬というのは働きに対する対価であって、働きに見合った分が当然の報酬として支払われるからです。しかし、不信仰な者、つまり罪人が信仰によって義と認められるという場合には、報酬を要求できるような働きがないのですから、信仰によって義とされることは、神から与えられる恵み以外の何物でもないのです。
パウロはこの同じ原理の正しさをを、もう一人の有名な人物を旧約聖書から引き合いに出して論証します。その例としてあげられるのが、ダビデです。ダビデはアブラハムと同じくらいユダヤ人にとってはなじみ深い人物です。この二人の事例を挙げれば、あとは議論の余地もないと言ってよいほどでしょう。
パウロが挙げたのはダビデの詩として知られる詩編32編からの引用です。
「不法が赦され、罪を覆い隠された人々は、幸いである。主から罪があると見なされない人は、幸いである。」(ローマ4:7-8=詩編32:1-2)
パウロがこの詩編を引用したのは、ダビデが自分の体験した罪の赦しを、神からの恵みと理解し、その幸いを歌っているからです。罪を赦されるということは、言い換えれば、実際には罪ある者をあたかも罪のない者のようにみなすことです。さらに言い換えれば、罪ある者を義と見なすということです。そう見なされた幸いをダビデは歌っているのです。
その場合、神がそのようにダビデの罪を赦し、義と認めてくださったのは、ダビデが罪の償いを完璧に果たしたからではありません。ダビデがしたことは、自分の罪を神の御前に認め、その罪を告白したことだけです。
そして、さらに言えば、ダビデが罪の告白をすることができたのは、すべてをご存じである主なる神を信じていたからにほかなりません。
ダビデは信仰によって罪の赦しをいただき、恵みによって義と認めていただいた幸いをこの詩編を通して歌っているのです。パウロがこの詩編を引用した理由はまさにこの点にあります。
信仰によってこそ義と認められることを、旧約聖書の二人の有名な人物から論証したパウロは、たたみかけるようにこう問いかけます。
「では、この幸いは、割礼を受けた者だけに与えられるのですか。それとも、割礼のない者にも及びますか。」
確かにダビデがこの幸いを得たのは、すでに割礼のある時でした。だからこそ、パウロはこの幸いが与えられるのは、割礼を受けた者だけなのか、それとも割礼を受けていない者にも及ぶのか、そのことを問うているのです。
そこで、再びアブラハムの場合を取り上げて論証します。
「アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされた証しとして、割礼の印を受けたのです。こうして彼は、割礼のないままに信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められました。」
アブラハムが義と認められたのは割礼を受ける前のことでした。ですから、当然、割礼のあるなしは、信仰による義とは関係がありません。むしろ逆で、割礼は信仰によって義とされたことを証しする証印として授けられたのです。
こうしてアブラハムは、行いによらない信仰による義を証ししたというばかりではなく、その義が割礼のない異邦人にも及ぶことを証ししているのです。