2011年5月19日(木)信仰による神の義(ローマ3:21-31)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
「信仰義認」という言葉があります。「信仰によって神の御前に義と認められる」という意味です。この信仰義認の再発見こそ、16世紀に起こったヨーロッパのキリスト教会の宗教改革運動を力強く動かしていったモチーフの一つです。
きょう取り上げようとしている個所で、パウロはこの信仰による義を力強く語っています。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ローマの信徒への手紙 3章21節〜31節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。実に、神は唯一だからです。この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです。それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。
前回までの学びで、パウロはローマの信徒への手紙を通して、すべての人が、誰一人として例外なく罪のもとにあり、罪が生み出す悲惨の状態に置かれていることを明らかにしてきました。しかも、そこから逃れるために、人間の側でできることは、すべて神の義を満足させるには不十分であると言うことでした。
前回取り上げた個所の最後でパウロはこう断言しています。
「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」(ローマ3:20)
きょうの個所はその言葉を受けて、「ところが今や」と語り出します。
今や、罪の自覚しか生じさせない律法によってではなく、律法を抜きにした神の義が明らかに示されたのです。そう言う新しい時代の訪れをパウロは告げます。
もっとも、律法を抜きにした、と言っても、律法とまったく無関係に神の義が示されたわけではありません。「律法と預言者によって立証されて、神の義が示され」たのです。「律法と預言者によって」という表現は「聖書によって」というのと同じ意味です。神は聖書を通して、来るべきメシアによる救いを指し示してきましたが、そのメシアを信じる信仰によって与えられる神の義が今や示されたのです。パウロはこう述べます。
「すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。」
まず第一に、それは自分の行いによる義ではなく、信じる信仰による義です。
既にパウロが述べてきたように、人間が行いによって義とされる道は、罪の現実のために閉ざされてしまっているのです。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなって」いるという現実を見過ごしてはいけません。「神の栄光を受けられなくなっている」という現実を大した問題ではないと思ってはいけないのです。罪のために神の栄光に値するような何かをするだけの力がもはや罪ある人間には欠けているのです。
例えて言えば、泥だらけの手をいくら擦り合わせてもきれいにならなように、そればかりか、ますます汚れが広がっていくように、罪ある人間がどんなに神の義を満たそうとしても、それを実現することはできないのです。人間は神の栄光を現そうとして、返って神の栄光に値しない者となってしまっているのです。いえ、神の栄光にすら関心を失くしているのが罪の現実です。
そうであればこそ、行いによる義ではなく、信仰による義への道が示されたのです。
すべての人が罪のもとにあり、すべての人が神の義を満たすことができないという点で、ユダヤ人と異邦人の区別がないのですから、信仰による義にもユダヤ人と異邦人という区別はありません。
しかし、信仰による義というのは、信じるということ自体が一つの功績として数えられているのではありません。信仰による義とは、信じる対象であるイエス・キリストがもたらしてくださる義であって、義をもたらす根拠は信じる者のうちにあるのではなく、イエス・キリストの内にあるのです。
従って、第二に、信仰による義とは、信じる者たちに代わってその義を満たしてくださるイエス・キリストがその中心にあります。イエス・キリストを抜きにして、信仰による義を語ることはできません。
パウロは信仰による義について述べるあたって、キリストの贖いの業に言及します。イエス・キリストは罪の奴隷となっている人間を、ご自分の血をもって贖い取ってくださり、主のものとしてくださったのです。
パウロはこのキリストについて、「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました」と述べています。
信仰による義とは、ご自身の血をもって人間の罪を償い、神の怒りをなだめる供え物としてご自身をささげられ、その犠牲によって、罪の奴隷であるわたしたちを贖い取ってくださった主イエス・キリストを信じることによってあたえられる神の義です。
したがって、第三に、信仰による義とは、神の側がすべてを整えてくださったという意味で、神の恵みにより無償で与えられる義なのです。信仰はそれを受けとるための器にすぎません。信仰という器によってだけ受け取ることができる無償の恵みとして与えられる義なのです。
そうであればこそ、パウロは信仰による義についてこう述べます。
「では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。」
信仰による義は、すべての人の誇りを打ち砕きますが、しかし、同時にすべて信じる者には等しく与えられる義でもあるのです。