2011年5月5日(木)神は不真実の神か(ローマ3:1-8)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
宗教の話は独善的で独りよがりの論法が多く、聞くに堪えないと思われがちです。自分の話すことがそう受け取られるときには、非常に残念な気持ちになります。しかし、そう言っているわたし自身が、自分とはちがう宗教の人の話を聞くときに、その独善的で独りよがりの論法を何とか打ち砕いてやりたいという思いで話に耳を傾けているのですから、滑稽としか言いようがないと言われても仕方ありません。
しかし、これは何も宗教の問題に限らないような気がします。自分にとって価値があり、その価値の素晴らしさにしたがって生きようとするときに、人は独善的で独りよがりになるのかもしれません。
けれども、そうであればこそ、何を信じ、どこに価値を置いて生きるのか、その問題を適当にいい加減に考えることはできないのだと思います。パウロの手紙にはそういう真剣さが手紙のどの部分にも貫かれています。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ローマの信徒への手紙 3章1節〜8節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
では、ユダヤ人の優れた点は何か。割礼の利益は何か。それはあらゆる面からいろいろ指摘できます。まず、彼らは神の言葉をゆだねられたのです。それはいったいどういうことか。彼らの中に不誠実な者たちがいたにせよ、その不誠実のせいで、神の誠実が無にされるとでもいうのですか。決してそうではない。人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。「あなたは、言葉を述べるとき、正しいとされ、裁きを受けるとき、勝利を得られる」と書いてあるとおりです。しかし、わたしたちの不義が神の義を明らかにするとしたら、それに対して何と言うべきでしょう。人間の論法に従って言いますが、怒りを発する神は正しくないのですか。決してそうではない。もしそうだとしたら、どうして神は世をお裁きになることができましょう。またもし、わたしの偽りによって神の真実がいっそう明らかにされて、神の栄光となるのであれば、なぜ、わたしはなおも罪人として裁かれねばならないのでしょう。それに、もしそうであれば、「善が生じるために悪をしよう」とも言えるのではないでしょうか。わたしたちがこう主張していると中傷する人々がいますが、こういう者たちが罰を受けるのは当然です。
きょうからローマの信徒への手紙の3章に入ります。パウロはここで、「では、ユダヤ人の優れた点は何か」と問いかけます。というのも、パウロは1章18節から始まって今に至るまで、ずっと人類すべての罪の問題を扱ってきたからです。そこにはユダヤ人と異邦人という区別はありません。律法をいただいていること、割礼を受けてていることは、律法を完全に守るのでなければ意味をなしません。律法を持たない異邦人も、律法が与えられて割礼を受けているユダヤ人も、神の御心を行っていないという点では、同じ罪人なのです。先週学んだ個所で、パウロはそのことを強調しました。
3章はそのことを受けて、「では、ユダヤ人の優れた点は何か。割礼の利益は何か」と問うているのです。これは今までのパウロの議論の進めかたを耳にしているユダヤ人であれば、当然疑問に思うことです。律法も割礼も役に立たない罪人であるとするなら、ユダヤ人は異邦人より優れていないということなのでしょうか。
確かにユダヤ人も異邦人も等しく罪人であるという意味では、どちらがどちらよりも優れているなどとは言えません。しかし、それでもパウロは、ユダヤ人には優れた点など何もないとは言いません。実際、神の恵みによって、ユダヤ人に与えられた優れた点があるからです。
パウロは「それはあらゆる面からいろいろ指摘できます。まず…」と述べて、話の続きを急ぎますが、「あらゆる面からいろいろ指摘できます」と言っているのですから、「まず」の次に第二、第三の優れた点を指摘するのかと思うとそうではありません。一つだけを挙げてその話をおしまいにしてしまいます。あとで9章から11章にかけてイスラエルの選びを扱う中で、ユダヤ人の問題を再び扱いますから、今のパウロにとっては一つを上げるだけで十分だったのでしょう。
というよりも、パウロは自分の議論の相手を意識しながら筆を進めていますから、次々に思い浮かぶ想定された反論に答えていくことにより多くの心を用いているようです。
パウロが挙げるユダヤ人の優れている点の一番は、神の言葉がゆだねられている、という点です。ユダヤ人だけが色々な時に色々な方法で特別に神の言葉を耳にするという恵みにあずかりました。そればかりか、その聞いた言葉を文書に書き納め、最終的には聖書という形で後世に伝えました。そうした神の言葉に対する慎重で敬虔な態度は、ユダヤ人の優れた点の一つといって間違いないでしょう。
もし、ユダヤ人たちが神の言葉をぞんざいに扱っていたとすれば、わたしたちは神の約束の確かさや神の恵みの深さを知ることができないばかりか、メシアについての期待すら持つこともできなかったでしょう。
しかし、パウロはこの優れた点を指摘すると同時に、すぐにも反論されかねない別の問題に心を留めます。それは、一部のユダヤ人の不誠実が、神の誠実を無にしてしまうことになりはしないか、という反論です。
この議論は少しわかりにくい言い回しですが、パウロの頭の中では、神の言葉がユダヤ人に委ねられた、という事実の前提には、神とその民であるユダヤ人との間に契約関係が成り立っているということがあります。この場合の契約関係というのは、神の側から一方的に与えられる恵みの契約関係です。もちろん、契約である以上は両者が契約に対して誠実でなければいけません。しかし、たとえ人間が契約に対して不誠実であったとしても、神は契約を誠実に守られるお方です。ですから、人間の不誠実のせいで、神の誠実が無にされるということはないのです。
むしろ、神はどんな場合にもご自分の正義に対して忠実なお方です。その誠実さは神の裁きの中にもっとも明らかに現れます。
パウロはここで詩編51編から引用して、「あなたは、言葉を述べるとき、正しいとされ、裁きを受けるとき、勝利を得られる」と述べていますが、神は正しく裁くことによってご自身の義を示されるのです。
しかし、ここでまた新たな反論が予想されます。それは、もし、神が人を裁くことによってその正しさを示し、契約に誠実であることが明らかになるのであれば、それは矛盾したことになりはしないか、というものです。もちろん、これは人間のへ理屈にすぎません。
人間の罪がなければ、神はご自身の義を示すことができないなどと考えるのは、神を冒涜し、自分の罪を正当化することにほかなりません。
もちろん、パウロに反論しようとしているユダヤ人たちは本気で「善が生じるために悪をしよう」などと考えているわけではありません。ただ、パウロが主張している、すべての人はユダヤ人も異邦人も皆等しく罪人である、という真理を受け入れたくないばかりに、へ理屈を並べているにすぎないのです。
パウロが主張している福音、「ダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力」である福音は、いかなる意味でも、人の罪を正当化するものではないのです。