2011年4月21日(木)罪に対する神の正しい裁き(ローマ2:1-16)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 自分が完ぺきな人間であって、神から表彰されるに十分な資格がある、と自負する人はめったにいないと思います。たいていの人は自分に多少なりとも欠けたところがあることは認めているものです。しかし、その欠けは万人にとって共通したことであって、それが理由で天国なり来世での報いを受けることができなくなると深刻には思っていないのも事実です。聖書の神が人間を見るほどに厳しく自分を見ないのが人間です。
 しかし、ローマの信徒への手紙は、この人間の根拠のない自信をまず打ち砕きます。それはわたしたちにとっては決して心地よいメッセージではありません。しかし、その後に語られる福音の内容を正しく理解するためには欠かすことができません。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ローマの信徒への手紙 2章1節〜16節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。神はこのようなことを行う者を正しくお裁きになると、わたしたちは知っています。このようなことをする者を裁きながら、自分でも同じことをしている者よ、あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか。あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。神はおのおのの行いに従ってお報いになります。すなわち、忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり、反抗心にかられ、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りをお示しになります。すべて悪を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、苦しみと悩みが下り、すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。神は人を分け隔てなさいません。律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び、また、律法の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれます。律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。そのことは、神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。

 きょうから2章に入りますが、この2章の出だしは、「すべて人を裁く者よ」という呼びかけで始まります。そして「すべて人を裁く者」を「あなた」という言葉で受けて、「あなた」に対する言葉として全体が綴られます。
 では、「人を裁くあなた」とは誰のことなのでしょうか。もちろん、「すべて」と言われているのですから、特定の人たちをイメージしているわけではなく、一般論として人を裁く者のことが言われているとも取れます。しかし、17節のところで、「あなたはユダヤ人と名乗り」とありますから、「人を裁くあなた」というのは、一般論ではなく、ユダヤ人のことを念頭に置いていることが分かります。

 1章の後半でパウロが展開してきたことは「真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対する神の怒り」でした。そこでは特に異邦人とユダヤ人を区別して論じることなく、「人間の不信心と不義」が問題でした。
 しかし、聞きようによっては、異邦人の罪が問題となっているようにも受け取れます。少なくとも、パウロのこの手紙を読むかもしれないユダヤ人読者には、まさに異邦人の罪が暴かれていると聞こえたことでしょう。

 しかし、パウロはユダヤ人を例外として扱おうとはしません。「すべて人を裁く者よ」と一般論のように切りだしながら、しかし、9節以下で「すべて悪を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、苦しみと悩みが下り、すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます」と述べて、異邦人ばかりかユダヤ人を含むすべての人間が神の御前に公平な審判を受けると断言します。

 では、異邦人を裁くユダヤ人にはどんな思い違いがあるのでしょうか。それは選民イスラエルに対する神の特別な慈愛と寛容と忍耐とを履き違えて、神の裁きから既に解放されているという思い違いです。
 神はイスラエルが悔い改めて、救いを求めて神に立ち返ることを忍耐深く待ち望んでいらっしゃるのです。選民といえども、そのままで神の裁きを逃れうるものではありません。自分たちの罪を直視して、神の御前に真摯に悔い改めるのでなければ、最後の審判の日に神の怒りを免れることはできないのです。

 パウロは、「神はおのおのの行いに従ってお報いになります」と述べています。そして、先ほど引用した9節と10節につながるのですが、ここは注意深く読む必要があります。おのおのの行いに従って報いるというからには、その行いが正しければ、栄光と誉れと平和が、その行いが正しくなければ、苦しみと悩みが下るというのは確かにその通りです。しかし、罪のうちに堕落した人間が、善を選びとって永遠の命に至ることができるのか、というと、それはまた別の問題です。
 3章9節以下でパウロが述べるところから判断すると、罪のうちに堕落した人間が、善を選びとって永遠の命に至ることができる可能性はまったくありません。つまり、ここでパウロが言いたいことは、人間には善を行う可能性があるので、善をおこなえば異邦人にもユダヤ人にもふさわしい報いが約束されている、ということではないのです。むしろ逆で、ユダヤ人も異邦人も等しく罪に堕落し、善を選び取れないという点では、まったく同じだということなのです。だから、異邦人を裁くユダヤ人には、その資格がないのです。神の前には等しく罪人にすぎないのです。

 しかし、もしそうであるとすれば、今度は異邦人の側から、納得がいかないという声が聞こえてきそうです。なぜなら、ユダヤ人にはモーセを通して神の律法が与えられ、善悪のはっきりした基準が示されているからです。それにもかかわらず罪を犯すとすれば、その罪は最後の審判の時に裁かれるのは当然です。
 けれども、異邦人には神の直接啓示としての律法が与えられてはいません。従ってユダヤ人と同じように裁かれるというのは納得がいかないというものです。

 それに対して、パウロはこう答えます。つまり、ユダヤ人は神からの律法が与えられているので、その与えられた記された律法によって裁かれ、律法を持たない異邦人には心に記された律法の教えが、裁きの根拠となるというのです。しかも、ユダヤ人も異邦人も、文書化された律法であれ、心に記された律法であれ、それを持っているというだけでは裁きを免れる根拠にはなりません。むしろ、それらの律法に従って生きていないことが、裁きの根拠なのです。そして、その意味で、異邦人もユダヤ人も、最後の審判の時にはわけ隔てのない裁きが待っているのです。

 このように最後の審判の時に裁きを受けるしかない罪人であることを示されるのは、聞く者にとっては不愉快でもあり、また不安なものでもあります。しかし、この人間の現実を直視するところにこそ、救いが恵みとして与えられる福音のメッセージが光輝くのです。