2011年4月14日(木)留まるところを知らない罪(ローマ1:24-32)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
自分が現に行っている悪を指摘されるのは誰しも心地よいものではありません。そこで我に返って素直に悔い改めるよりは、たいていの人は自分を正当化しようとしていろいろと言い訳を言い始めます。
聖書がたいていの人にとって面白くないのは、まさにこの点です。きょう取り上げようとしている個所には、あからさまにわたしたちの罪が指摘されています。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ローマの信徒への手紙 1章24節〜32節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです。造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン。それで、神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました。女は自然の関係を自然にもとるものに変え、同じく男も、女との自然の関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い、その迷った行いの当然の報いを身に受けています。彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、無知、不誠実、無情、無慈悲です。彼らは、このようなことを行う者が死に値するという神の定めを知っていながら、自分でそれを行うだけではなく、他人の同じ行為をも是認しています。
先週取り上げた個所には「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます」とありました。真理を妨げる不信心、つまり歪んだ宗教心について、先週は取り上げました。
その歪んだ宗教心は、まことの神でないものを神として崇めるというだけに留まるものではありません。神の真理を妨げて、まことの神との関係をゆがめるときに、人間は自分自身の生き方をも空しくしているのです。
きょう取り上げる個所には、そうした神を神として崇めない人間の生き方が、どこに行き着くのかという、罪の世界の現実を率直に語ります。
パウロは語ります。
「そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。」
神を神として畏れず敬わない結果どうなったかというと、決して人間らしい最高の生き方ができるようになったというのではありません。残念ながら、神を畏れ敬わない生き方は、人間を自由にしたのではなく、返って自分を律するものを失ってしまい、欲望の虜になってしまったのです。
聖書はそのことを「そこで神は彼らを不潔なことに引き渡した」と表現します。24節と26節では「まかせた」とありますが、28節が同じ言葉を「渡された」と訳しているとおり、「まかせた」というよりは「引き渡されたのです。だから、人間が罪を犯し続けるのは引き渡した神のせいだ、などと考えてはいけません。
むしろ、そういう仕方で、神は罪に対するご自分の怒りを表現しているのです。まことの神を畏れない人間の生き方は、自分では自分の思いのままに自由に生きていると勘違いしていますが、実はそうではありません。心の欲望によって不潔なことをしているにすぎないのです。そこから自分の意志で抜け出せないのですから、ほんとうに自由だとは言えません。
実際、罪ある人間が自由だと思いこんでしていることは、実は自由な行動でもなんでもなく、単に心の欲望によって不潔なことをし続けているにすぎないのです。このことにこそ、神の怒りと裁きとが現れているのです。
彼らが自由だと思ってしていることの結果は、互いにその体を辱めることだったのです。
本来ならば、人間は神のかたちを与えられた尊厳ある生き物ですが、罪ある人間は、与えられた体を、この尊厳さとは正反対のことのために使っているのです。
特にここでは、倒錯した性の問題が取り上げられています。
「体は誰のものでもない自分のものだ」というのが自明の真理だと思いこんでいる人間の行き着くところは、結局は体を濫用して、互いに体を不名誉なことにしか用いることができなくなっているのです。
このローマの信徒への手紙の12章1節には「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」とあります。体は自分のものなのではなく、神にささげるべきものなのです。神の栄光のために生きる生き方こそ、尊厳ある人間の生き方なのです。
しかし、そのことに気がつかないところにこそ、人間の罪の深さがあり、その人間の罪に対する神の怒りがこのような形で現れているのです。
「彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。」
罪深い人間の目からみれば、神からの自由を勝ち取って、個人としての人格を確立したように思っていても、神の目から見れば、無価値な思いの虜になっているにすぎないのです。その結果、ますます罪に罪を重ねる生き方を送っているのです。
聖書はもっとも大切な掟として、神を愛することを命じています。そして、それと同じように隣人を愛することを命じています。この二つの掟は、一見無関係は二つの掟のように思われるかもしれません。少なくとも、隣人愛は神への愛とは無関係に実践できるものと思われがちです。
しかし、神を神として認めず、神を神として愛することのないところには、隣人愛もまた倒錯し、汚れたものとなってしまうのです。
29節と30節には、人間が犯しうるあらゆる悪徳のリストが思いつく限り列挙されています。パウロは他の手紙にもそのような悪い行いのリストを挙げていますが、数あるリストの中でも、このローマの信徒への手紙ほど長いリストはありません。しかし、もちろん、これがわたしたち人間が犯す罪のすべてだとは思うべきではありません。これは、ほんの一例にしかすぎません。
その人間の罪深さは、ついにこう言う言葉で結ばれています。
「彼らは、このようなことを行う者が死に値するという神の定めを知っていながら、自分でそれを行うだけではなく、他人の同じ行為をも是認しています。」
もはや自分を律する何物をも持たないばかりか、かえって罪を拡散することに熱心なくらいなのです。
このように悲惨な罪の状態から、人は自分の力では抜け出すことはできません。そのためにこそ、パウロは御子の福音を解き明かそうとしているのです。