2011年4月7日(木)真理を阻む人間の罪(ローマ1:18-23)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 エデン園で人類を罪へと誘った蛇の言葉は「それを食べると、目が開け、神のように善悪を知る者となる」というものでした。
 「神のようになれる」というのは、言い換えれば、もはや神を必要としなくなる、というのと同じことです。なぜなら自分が神のようになれば、神を頼ったりする必要がないからです。
 サタンの誘惑の言葉は手を変え品を変え、わたしたちが神のようになれると今でも錯覚させ、神など必要ないとそそのかします。
 しかし、サタンの言葉に従って、善悪を知る木の実を食べたアダムとエバは、神のようになれるどころか、自分が無力で無防備な裸であることを知ったのです。神のようになれなかったのですから、まことの神を必要とするはずなのに、まことの神を、おおよそ神ではないもので埋め合わせようと、返って悲惨の上塗りをしているのが人間です。
 きょうの個所はそうした罪の悲惨さとそれに対する神の怒りが語られています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ローマの信徒への手紙 1章18節〜23節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。

 きょうの個所は、「神の怒りが現される」という言葉で始まります。同じ表現は2章5節で、「この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう」と、将来のこととして語られます。
 しかし、きょうの個所が語っているのは、将来、最後の審判時に現される神の怒りのことを語っているのではありません。現在の神の怒りについて語っているのです。
 その神の怒りは、「人間のあらゆる不信心と不義」に対して向けられる怒りです。

 「不信心と不義に対して神の怒りが現される」というのは、神の怒りの法則なり原理を述べているのではありません。むしろ、ここでは不信心と不義に対して神の怒りが現されている現実を語っているのです。確かに神は不信心と不義に対して現実に怒りを現しておられるのです。この現実を決して都合よく薄めて理解してはいけません。
 確かに神は愛なるお方ですから、人間の罪に対して忍耐強く、寛容な態度を示してくださっています。しかし、神は人間のあらゆる不信心と不義とを、何とも思っていらっしゃらないのではありません。神は罪をお嫌いになり、強い怒りを感じていらっしゃるのです。この神の怒りを通して、わたしたちは罪の大きさを知ることができるのです。神の怒りを薄めて考えることは、自分の罪を軽いものと考えるのと同じです。

 ところで、「現される」という言葉は、直前の節で、「啓示されている」と訳されている言葉と同じです。つまり、福音には神の義が啓示されていますが、神の怒りは人間のあらゆる不信心と不義に対して啓示されているのです。

 さて、神の怒りが向けられているのは、人間のあらゆる不信心と不義に対してです。「不信心」というのは、単に神を信じない、という消極的な心のありようではありません。むしろ、神を神として認めず、神を神として畏れ敬わない生き方全体のことです。
 そのような生き方をする人間を、パウロは「不義によって真理の働きを妨げる人間」と呼んでいます。

 神は最高の真理であり、神こそ真理を示すことのできるお方です。その真理をはばむ生き方こそ、聖書が語る罪人の生き方なのです。罪人の生き方は、神の真理を拒み、これが広がることを押しとどめようとする生き方です。

 パウロはここで、「不義によって真理の働きを妨げる人間」と語っていますが、パウロが語っているのは、人間は知らず知らずのうちに真理の働きを押しとどめている、というような、消極的なことではありません。
 次の19節で述べているように、「神について知りうる事柄は、彼らにも明らか」なのです。知らないでしていることではなく、知りうるのに知ろうともせず、分かろうともしない人間の罪によって、真理は妨げられているのです。

 パウロは20節で「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます」とはっきりと述べています。このことを専門用語では「自然啓示」と呼んでいます。神はお造りになった被造物を通してご自分の存在を語り続けていらっしゃるのです。

 それに対して、神の直接の語りかけのことを「特別啓示」と呼びます。預言者の口を通して語られたり、しるしを通して示されたり、また、そうして示されたものがまとまった聖書も、神の特別啓示の記録です。

 ユダヤ人のようには神の特別啓示を知らず、記された聖書を持たない異邦人は、神を知り得ないのですから、真理の働きを妨げているわけではない、という反論があるかもしれません。そういう反論を予想して、パウロはそのような弁解は通用しないと述べます。なぜなら、自然啓示の中でも神はご自分の存在を雄弁に証しされているからです。

 そのような神の啓示を前にして、それでもなお「神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなって」いるところこそが、まさに「不義によって真理の働きを妨げる人間」の罪深い姿なのです。
 この人間の罪深い生き方に対して、神はその怒りを現しておられるのです。

 真理を妨げる、そういう生き方をする人間を描くにあたって、パウロは人間の愚かな偶像礼拝を引き合いに出します。

 「滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。」

 ここでパウロが語っているのは、いわゆる形のない神を形ある像によって礼拝する偶像礼拝のことです。しかし、パウロがいう偶像礼拝は、必ずしも文字通りの偶像礼拝に限定されるわけではありません。

 まことの神を認めないその隙間を、神ではない何かで埋め合わせて、満足を得ようとする生き方すべてが、偶像礼拝につながるのです。

 神の真理を妨げて、まことの神との関係をゆがめるときに、人間は自分自身の生き方をも空しくしているのです。そのことに気がつかないところに、罪の悲惨さがあるのです。そして、この罪の悲惨さから救われるために、何が必要なのか、パウロはこの手紙を通して福音を語ろうとしているのです。