2011年3月31日(木)福音は神の力(ローマ1:16-17)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
信じるということは、簡単なようで難しくもあります。何でもないことであれば、簡単に信じることができます。いえ、何でもないことであれば、信じる必要もありません。しかし、人生を左右するようなこととなればなるほど、信じるには勇気が必要です。そして人生を左右するほどのことこそ、信じるに価値があるものなのです。もっとも聖書は信じるということもまた神から与えられるものであると教えられています。きょうこれから取り上げようとしている個所は、このローマの信徒への手紙にとって、中心となるテーマが簡潔に述べられています。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ローマの信徒への手紙 1章16節17節です。新共同訳聖書でお読みいたします。
わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。
今お読みした個所は、そこだけ切り離して読んだとしても、それだけでとても重要な内容が盛り込まれている個所です。そして、パウロはこのテーマをこの手紙全体を通して十分に展開しています。
ただ、きょうはここだけを切り離して読みましたが、実際にはその前の個所からつながる言葉です。
パウロは直前の個所でこう述べました。
「わたしは、ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります。それで、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです。」
ローマの人たちにもぜひ伝えたいと願っている福音について、パウロは「福音を恥としない」と述べます。
ぜひ告げ知らせたい福音なのですから、「福音を恥としない」というのは、一見当然のことのように思われるかもしれません。自分が福音を恥じているのであれば、ぜひ告げ知らせたいなどとは言わないでしょう。では、どうして、わざわざ「福音を恥としない」などというのでしょうか。
実は、パウロが伝えようとしている福音は、聴く人が聴けば、それは愚かなように聞こえ、またつまずきを覚えるような内容だからです。その福音は既にこの手紙の冒頭で記されているとおり、「御子に関するものです」(1:3)。しかも、神の御子であるイエス・キリストは、「神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられ」「人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順」なお方でした(フィィピ2:6-8)。
しかし、神の御子がなぜ人となる必要があったのか。そして、なぜ十字架の死を耐え忍ばなければならなかったのか。また、どうして十字架で処刑されるような者が救い主と言い得るのか。しかも、十字架で命を落とした者がどうして死者の中から復活することができたのか。
こうした疑問は、パウロが福音を伝えようとする相手の誰もが初めは抱く疑問です。そして、多くの人たちにとって、このようなことを信じることは、ばかげていることであり、躓きです。
十字架の言葉についてパウロはコリントの信徒への手紙一の1章23節と24節でこう述べています。
「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。」
そうであるからこそ、パウロは手紙の本論に入る前に、ローマの人々にも福音を伝え知らせたい強い思いを述べ、世間の人がこの福音についてどう評価しようが、この福音を恥としない確信を述べているのです。
「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」
この言葉は先ほど引用したコリントの信徒への手紙の中でパウロが述べていることと一致しています。パウロにとって神の御子の福音は「救いをもたらす神の力」に他なりません。人間が成し遂げることができない救いの道を、この神の御子イエス・キリストが切り開いてくださったからです。
しかも、この救いをもたらす神の力は、ユダヤ人にだけ与えられるものではありません。ギリシア人を代表とする異邦人すべてにも与えられるものです。ただし、ユダヤ人と異邦人の区別を取り去って、同じように救いに与ることができるのは、信じる信仰によるものです。
信仰とは救いを受け取る手段です。どんなに救いの恵みを注がれたとしても、それを受け取る器がなければ、救いの恵みを受け取りようがありません。その器となるものが信仰です。この信仰があるからこそ。ユダヤ人をはじめ。ギリシャ人にも救いがもたらされるのです。
もし、信仰がなければ、人は御子の福音を愚かな言葉として退け、つまずきを与える教えとして取り除き、結局のところ、救いから自分を遠ざけてしまうのです。
ところで、エフェソの信徒への手紙によれば、信仰を通して救われること自体が、神から恵みとして与えられる賜物であると言われています。エフェソの信徒への手紙2章8節にはこうあります。
「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。」
救いが人間の側からやって来るものではなく、神の側から与えられるものであるからこそ、福音は神の力だ、とパウロは確信をもって断言します。
そこで、パウロはこう述べます。
「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。」
福音には神の義が啓示されています。人間が行いによって勝ち取ることのできない義を、キリストが身代わりとなって実現してくださったからです。だからこそ、福音には神の義が鮮明に表れているのです。しかもその神の義は信仰に始まり信仰へと至る神の義です。
しかし、この信仰を通して実現される救いは、今まで耳にしたこともないような新しい教えではありません。旧約聖書を注意深く読めば、そのことは既に預言者の口を通して告げ知らされています。
「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。
ここで引用されている言葉は旧約聖書ハバクク書2章からの引用です。そこにはこう記されています。
「幻を書き記せ。 走りながらでも読めるように 板の上にはっきりと記せ。定められた時のために もうひとつの幻があるからだ。 それは終わりの時に向かって急ぐ。 人を欺くことはない。 たとえ、遅くなっても、待っておれ。 それは必ず来る、遅れることはない。見よ、高慢な者を。 彼の心は正しくありえない。 しかし、神に従う人は信仰によって生きる。」
高慢な者は主の言葉を信仰によって受け取ることができません。しかし、神の言葉を信仰によって受け止める人が、神の義を受けて救いに至るのです。