2011年3月10日(木)イエスの証人となるように(ルカ24:44-53)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
二年と八ヶ月かけて取り上げてきたルカによる福音書の学びも、いよいよ今日で最後になりました。この福音書の学びを通して、お一人お一人が心の目を開かれて、復活のイエス・キリストと出会うことができますように、その思いをこめて、最後の箇所をご一緒に学びたいと思います。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 24章44節〜53節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」
イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。
今日取り上げた箇所は、ルカによる福音書の最後の部分ですが、何度読んでもこの箇所は一冊の本の締めくくりとしては、中途半端な印象を与えます。
この福音書末尾の部分で、復活のイエス・キリストは、約束のものを受けるまでは都エルサレムにとどまるようにと弟子たちに命じています。しかし、その約束のものがどうなったのかが記されないままに、イエス・キリストは天にお帰りになり、残された弟子たちは命じられたとおりエルサレムにとどまって、神をほめたたえながら喜びにみちた生活を送っているところで話が終わってしまいます。
この終わり方には、当然、この話に続きがあることが予想されます。ご存知のとおり、著者であるルカはこの福音書の続編ともいうべき使徒言行録を書き表しています。確かに、そこには約束されたものがどうなったのか、そして、弟子たちがどのようにして、復活のイエス・キリストの証人となって神の国の福音を宣べ伝えるようになったのかが記されています。
そういう意味では、ルカによる福音書の末尾の部分は、使徒言行録への序章とも言えるかもしれません。
では、使徒言行録を最後まで読み終えると、上下二巻からなるルカ文書は、ひとつのまとまった結論に到達するのか、というと、使徒言行録の結びもまた中途半端な終わり方で締めくくられています。その結末はこうです。
「パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。」(使徒言行録28:30-31)
この使徒言行録の終わり方も、この後いったいパウロはどうなるのか、という続きを知りたくなるような終わり方です。著者のルカは三巻目を著すつもりでいながら、それを書くことができないまま生涯を閉じてしまったのでしょうか。今となってはその真相はわかりません。しかし、ひとつ確実にいえることは、神の国の宣教の働きには終わりがないということです。ルカ福音書にしろ、使徒言行録にしろ、開かれた終わり方だからこそ、将来への余韻を感じることができるのだと思います。
さて、ルカ福音書のおしまいの部分には、再び聖書全体を解き明かされるイエス・キリストの言葉が記されています。すでに学んだように、復活のイエス・キリストはエマオ村に向かう二人に弟子たちにも同じように聖書全体を解き明かされました(24:27)。そして、その説明をきいた二人の弟子たちは「心が燃えたではないか」とそのときの感想を漏らしています(24:32)。イエス・キリストは再び弟子たちに向かって、キリストについて聖書に記されている事柄が必ず成就すべき事柄であることを力説されます。それも苦難を通して復活の栄光に輝くメシアについてです。
イエス・キリストは、そのことを弟子たちとともにいたときから何度もおっしゃってきました。しかし、このときにいたるまでイエス・キリストがおっしゃっていた意味を弟子たちは悟ることができませんでした。キリストによって心の目を開いていただいたときに、はじめて聖書が語っている事柄を悟ることができたのです。
確かに、聖書の預言が来るべきメシアを指し示しているということまでは弟子たちにも理解できていたにちがいありません。しかし、そのメシアが苦難をお受けになる、ということは思いもよらないことだったに違いありません。十字架のキリストを目の当たりにしたときに、失望を隠し切れませんでした。まして墓の中から復活するキリストには思いもいたりませんでした。
そうであればこそ、ご自分の身の上に起こったことを、復活の主イエス・キリストは、聖書全体をひも解いて、弟子たちに解き明かされたのです。そして、キリスト教会が宣べ伝える福音は、このイエス・キリストが解き明かしてくださった聖書の理解に基づいているのです。
そうした理解を持たせた上で、イエス・キリストは弟子たちを福音の宣教のための証人としてお遣わしになります。
ところで、イエス・キリストはこの弟子たちを遣わすにあたって、父が約束されたものを送るとおっしゃいます。しかし、それが送られるまではエルサレムにとどまるようにと命じます。
使徒言行録にはその約束のものである聖霊が使徒たちにくだり、福音がエルサレムから始まって、ユダヤ、サマリヤ、そして、地の果てにまで広がっていく様子が描かれています。
けれども、ルカ福音書は約束のものを待ちながら、エルサレムにとどまる弟子たちに様子を生き生きと描いて、福音書を閉じてしまいます。
使徒言行録を読むまでもなく、当然、この弟子たちの上に聖霊が下り、復活のキリストの証人として、彼らが神の国の福音を宣べ伝えることになることは、予想できることです。そう予想できるのは、言うまでもなく、このことを約束し、命じておられるのが主イエス・キリストご自身だからです。
しかし、そればかりではなく、弟子たちの活き活きした姿の中にも、将来への明るい展望を見ることができます。
確かに、弟子たちが福音宣教に押し出されていったのは、そのことを主イエス・キリストがお命じになったからです。そして、その宣教の力を約束された聖霊が与え続けてくださっているからです。
けれども、その前に、弟子たちには復活のキリストと出会った喜びがあり、神をほめたたえる思いに満ち溢れていたことも見逃せません。そのこともまた神の国の福音を宣べ伝えていく大きな力となったことは疑うことができません。