2011年2月17日(木)書を解き明かす復活のキリスト(ルカ24:13-27)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
聖書をどう読むのか、これはとても大切な問題です。実際、聖書をどう読むかで、その人の信仰の内容が形作られるからです。
イエス・キリストはかつて同朋のユダヤ人たちに対して「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ」(ヨハネ5:39)とおっしゃいました。聖書全体を救い主であるイエス・キリストと結び付けて読む読み方こそ、キリスト教会の聖書の読み方です。そのように聖書を読むときにこそ、キリストがなしてくださった救いの御業全体を正しく理解できるのです。
きょう取り上げる個所にも聖書全体を解き明かすイエス・キリストの姿が描かれています。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 24章13節〜27節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。
きょう取り上げたこの個所は、「エマオ途上」の出来事として知られる有名な話です。ルカによる福音書だけが記している出来事であると同時に、この福音書の中では、このとき初めて、復活のキリストが弟子たちの前にその姿を表します。それまで、ルカ福音書が復活について記してきたのは、キリストを葬ったはずの墓が空っぽであったことや、天使たちがキリストの復活を婦人たちに告げた話だけです。もちろん、これらの話はキリストが復活したことの動かしがたい証拠とは言えません。実際、先週学んだ通り、使徒たちでさえその報告を聞いて、たわ言としか思わなかったのです。
では、復活したキリストが目の前に現れたなら、それだけで弟子たちは復活のキリストを信じるようになるのでしょうか。エマオ村に向かう弟子たちの話は、興味深い事実をわたしたちに教えてくれます。
さて、キリストの遺体を納めた墓が空だったとする報告が婦人たちによってもたらされたその日、エルサレムを離れて十一キロほど先の村へ帰ろうとしていた二人の弟子がおりました。その二人の弟子に復活のキリストがその姿をお示しになったのです。ところが奇妙なことに、この弟子たちにはそれがキリストであるとは気がつかなかったのです。ルカ福音書は彼らの目が遮られていたからだ、とその気がつかない理由を説明しています。この場合の「遮られて」というのは、物理的に目が覆われていたということではありません。実際にはそこに人がいることも、自分たちが向かう道も、弟子たちにはちゃんと見えていました。
何がどう遮られていたのでしょうか。この二人の弟子たちは、出会った旅人が復活したイエス・キリストであるとは思わずに、自分たちの心のうちを語り始めます。その内容は、彼ら二人の弟子たちがどれほどイエス・キリストに期待し、そして、どれほどその希望が打ち破られてしまったかというものでした。
少なくとも、この二人の弟子にとってイエス・キリストは「行いにも言葉にも力ある預言者」で、「イスラエルを(ローマの支配から)解放してくださる」という希望をかけるに十分値する人物でした。しかし、その期待の人物が、こともあろうに同朋の指導者たちの手によってローマの官憲に引き渡され、処刑されてしまったのですから、その衝撃と失望感がどれほどのものであったかは簡単に想像することができます。
しかも、その失意の大きさは、婦人たちによってもたらされた報告によっても覆すこともできないほど大きなものでした。エマオに到着したのはもう日が傾く夕方のことでしたから、エルサレムを出たのは三、四時間ほど前のことでしょう。婦人たちが空の墓を発見した夜明け早々の出来事から半日近く時間が経過していても、それでも彼らの失意を癒すすべは何もなかったのです。
その失望感こそ、彼らの心の目を覆って、復活のキリストの姿を見えなくしている一番の原因だったのです。
イエス・キリストはその二人の弟子たちにおっしゃいます。
「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち」
このエマオへ向かう弟子たちの話から教えられることは、キリストが復活したという事実は、復活したキリストが姿を現すことで、誰もが信じることができるようになる、というものでもないということです。
預言者たちを通して神が語って来られたことを信じることができなければ、復活という事実を目の当たりにしても、それでもそこに復活のキリストの姿を認めることができないのです。そして、それは預言者が語ってきた言葉をどう読むか、ということと深く結び付いているのです。
イエス・キリストはおっしゃいます。
「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」
これが、預言者たちが語ってきたメッセージだとイエス・キリストは解き明かされます。しかも、「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり」、御自分について書かれていることを余すところなく説明されたのです。
キリスト教会がイエス・キリストの復活を信じているのは、ただ、それが事実であったということだけによるのではありません。そうではなく、キリストの救いの御業全体を、旧約聖書の指し示すところに従って理解し、受け入れるときにはじめて、キリストの復活の事実と意味を信じることができるのです。
このように聖書を解き明かしてくださるイエス・キリストの聖書の解き明かしを通して、キリスト教会はキリストの復活に心の目が開かれていったのです。