2011年1月27日(木)イエスの死(ルカ23:44-49)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
福音書の記事によれば、イエスのほかに二人の犯罪人がポンティオ・ピラトのもとで十字架上の死を遂げています。何も知らない人が見れば、この三人の死はローマ帝国に対する反逆の罪で処刑された犯罪者の死です。しかし、この三人の人たちを多少でも知っている人にとっては、一人は濡れ衣を着せられた死であり、あとの二人は政治的確信犯に近い死でした。
けれども、キリスト教会は、この三人のうち、イエスの死だけに特別な意味を見出しました。それは単なる冤罪の死ではなく、神の深い御計画によって、信じる者すべてに救いをもたらす身代わりの死であったというものです。
きょう取り上げようとしている個所は、そのイエスの死の場面を描いた個所です。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 23章44節〜49節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した。見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った。イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた。
イエス・キリストが十字架につけられたのは、他の福音書の記事によれば午前九時のことでした(マルコ15:25)。それから三時間たった昼の十二時に、太陽が光を失い、全地は三時間ほど暗闇に覆われました。
この出来事を単なる自然現象である日食だと言ってしまえば、それまでです。そして、エルサレムで日食が見られるのはいつか、ということを計算で求めて、キリストの処刑された年代をおおよそ求めようとする真面目な研究もあります。
もちろん、太陽が光を失うのは月が太陽の光を遮る日食ばかりとは限りません。異常に厚い真っ黒な雨雲が太陽の光をにわかに遮るということもありえます。あるいは突然の風に砂が舞って太陽の光を遮ることもあるでしょう。
ただ、福音書記者は、その出来事を単なる自然現象として、客観的にわたしたちに伝えようとしているのか、というと、そうではなさそうです。
終わりの時を預言する、旧約聖書の言葉には、しばしば、天体の異常な現象が予告されます。たとえば、ヨエル書2章10節は、終わりの日が来る前に、太陽が闇に変わる、と預言しています(アモス8:9も参照)。それは神の裁きの日の象徴です。
福音書記者たちが、この日全地を覆った闇について言及しているのは、単なる自然現象としてではなく、メシアの死に特別な意味を見出しているからでしょう。
イエス・キリストの死は、まさに全人類の罪のために裁きをお受けになるメシアの死なのです。あるいは光であるキリストの死を、このような闇として象徴的に捉えたのかもしれません(ヨハネ12:35-36参照)。
福音書にはキリストの死の時に起こったもう一つの不思議な出来事が記されています。それは神殿の垂れ幕が真中から二つに裂けたという出来事です。この垂れ幕というのは、聖所と至聖所とを隔てる垂れ幕のことでしょう(ヘブライ9-10章参照)。キリストの死によって神の恵みの座への道が開かれると同時に、神殿の役割に終わりがもたらされた、ということを象徴する出来事です。
これらの二つの出来事は他の福音書にも記されていることですが、ここでルカ福音書は独自のことを報告します。それはイエスの十字架上での言葉です。四つの福音書に記されている十字架の上でのイエスの言葉は七つあると知られていますが、ルカ福音書が記した十字架上でのイエス・キリストの最後の言葉は「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」という、とても穏やかな言葉でした。
いえ、この福音書が記している十字架の上でのキリストの言葉は、すべて穏やかな言葉で終始しています。
「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」という言葉に始まり、自分の非を認めた十字架上の犯罪人の一人には「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と声をかけ、そして、今、息を引き取るときには「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と平安そのものを感じさせます。
もちろん、十字架の処刑について記した古代の文書の中には、この刑罰がどれほど残虐で苦痛に満ちたものであるのか、嫌というほど書きしるされています。ルカ福音書の記述を読んでいると、ややもすると、十字架刑が何の苦痛も伴わないものであるかのように錯覚してしまいます。
十字架刑の肉体の苦痛が耐えがたいものであったことは言うまでもありません。しかし、十字架で味わわれたイエス・キリストの苦しみは肉体の苦しみだけではありません。他の福音書が書きしるしているように「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」というキリストの叫びは、肉体の苦しみ以上の苦しみを言い表しています。神から見捨てられるほど絶望的なことはないからです。
実際には筆舌に尽くしがたいほどの絶望と苦しみを、わたしたちの罪の身代わりとなって死なれた十字架のキリストは味わわれたはずです。しかし、ルカ福音書が描くキリストの十字架の場面は平安に満ちています。
のちに初代教会最初の殉教者となったステファノの死を、同じルカは記していますが、そのステファノもイエス・キリストのように自分の魂を神に委ねて死を迎えています。ステファノは死の間際にこう言いました。
「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」(使徒7:59)
イエス・キリストはただわたしたちに死の時の模範を示してくださったのではありません。死の間際にあっても神の御手にすべてを委ねることができる平安をわたしたちのために勝ち取ってくださったのです。イエス・キリストにあっては、クリスチャンの死は罪への裁きではなく、キリストと共にいることだからです(フィリピ1:20-23)
ルカ福音書は最後にローマの百人隊長の証言を伝えています。他の福音書にもこの出来事は伝えられていますが、ルカ福音書が伝える百人隊長の言葉は、キリストが潔白であったことを特に証言しています。
「本当に、この人は正しい人だった」
しかも、ルカによる福音書は、この異邦人である百人隊長だけが、この十字架の場面で神を賛美していることを伝えて、この十字架の場面を結んでいるのです。