2011年1月20日(木)きょうわたしと一緒に(ルカ23:39-43)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
「もう手遅れです。どうしてもっと早く来なかったのですか」と言われてしまうと、なんともやるせない気持ちになってしまいます。確かにもっと早く来なかった自分が悪かったのでしょうが、それを今さら言われてもどうしようもないからです。
きょう取り上げようとしているイエス・キリストの言葉は慰めに満ちています。死の間際になっても、「もう手遅れだ」とはおっしゃいません。人間の目には絶望的と見えても、まだ神の救いの時が残されているからです。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 23章39節〜43節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。
きょうの個所はイエス・キリストとともに十字架につけられた二人の犯罪人の話です。
前回も触れましたが、この犯罪人というのは、おそらくただの盗人や殺人犯というのとは違う種類の人たちです。むしろ政治的宗教的な確信をもって反社会的な行動をとった人たちです。その手の人たちは為政者と社会の安定を望む人たちにとって最も厄介な人々です。自分の正しさを確信しているのですから、十字架刑に処せられたとしても、自分が悪いとは思うはずもありません。むしろ、自分の行動を理解できない人々を恨めしく思ったことでしょう。
十字架にかけられた二人の犯罪人のうちの一人は、自分と同じように十字架にかけられたイエスをののしります。それもそうでしょう。
少なくともこの犯罪人には自負心というものがあったに違いありません。自分が救国の戦士か英雄ででもあるかのように思い込み、自分の反社会的な行動の非を寸分たりとも認めることができません。
そんな彼にとっては、自分を十字架につけた人々のために執り成しの祈りを捧げたり、自分を侮辱する言葉に言い返しもせず、ただずっと黙ったままでいるイエス・キリストが、まことの救い主であるとは認めることができるはずもありません。
しかし、もう一人の犯罪人は、そうではありませんでした。十字架での死の間際に、自分の生涯を省みて、自分の罪を深く悔いています。人々は自分を理解しないがために自分を十字架につけたのだ、とは、少しも思いません。いえ、彼だってもう一人の犯罪人と同じように宗教的政治的な確信から行動をとってきたはずです。
しかし、自分と共に十字架にかけられ、しかし、自分とはまったく違った歩みをしてきたイエス・キリストを見て、自分の罪に気がついたのでした。
「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」
この人が気がついたのは、自分の罪とイエス・キリストの潔白さだけではありませんでした。イエス・キリストを特別なお方であると認めるにまで至っているのです。
もう一人の犯罪人のように「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」などと毒づいたりはしません。そうではなく、こう言ったのでした。
「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」
イエスをまことの王として認め、しかも、この十字架の死の向こうにある栄光に心を向けているのです。自分ももう一人の犯罪人も、自分の罪のためにこの十字架の上で死ななければならないのは当然です。しかし、イエス・キリストはそうではない。十字架の死が終わりではなく、やがて御国で王位につく時が来ることを、この男は信じているのです。
この男の言葉に対して、イエス・キリストはこうお答えになりました。
「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」
まず第一に、イエス・キリストを信じるこの男に対して、楽園(パラダイス)が約束されているということです。
人類の悲惨さは、罪のためにエデンの園を追放されたところから始まりました。今、イエス・キリストはこの罪人を楽園に迎え入れるとの約束をしてくださっているのです。罪によって失われた楽園を、イエス・キリストは回復して下さるお方です。
第二に、その楽園に「わたしと一緒にいる」とおっしゃってくださいます。
イエス・キリストがお生まれになるとき、神はその生まれてくる子の名が「インマヌエル」と呼ばれると予告なさいました(マタイ1:23)。その名は「神は我々と共におられる」という意味です。神はイエス・キリストを通してわたしたちと共にいてくださいます。キリストが一緒にいてくださるところこそ、神が共にいてくださる楽園なのです。
第三に、「今日わたしと一緒に楽園にいる」と約束してくださいました。
この男はイエス・キリストに対して、何時になるか分からない将来に自分を思い出してほしいと願いました。しかし、イエス・キリストは「今日」という日に楽園でこの男と一緒にいることを約束してくださっているのです。
ルカによる福音書はしばしば「今日」という救いの出来事の日について語ってきました。
キリストの誕生を告げる天の御使いの言葉は「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」(ルカ2:11)というものでした。故郷のナザレの会堂でイザヤ書を朗読されたイエス・キリストは「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められました(ルカ4:21)。さらに、徴税人の頭であるザアカイの家にお泊りになったとき「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。」とおっしゃいました(ルカ19:9)。
そして、今、悔い改めてイエスにすがるこの男に対して、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と約束してくださっているのです。
ルカによる福音書は救いの出来事を決して過去の出来事として描いているのではありません。この福音書を読む者が、イエスと出会って、今日という日に救いの恵みに与るようにと、この福音書を書きしるしているのです。キリストによって天の門が開かれている間は、遅すぎるということはありません。
自分自身の過ちに気が付き、救いを求めてキリストに寄りすがる者には、今日という日に救いが約束されるのです。