2011年1月13日(木)あざけりの中で(ルカ23::32-38)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 イエス・キリストの生涯を映画化した作品は今までにも何本か見たことがあります。どの作品もそうですが、十字架の場面ほど悲惨な場面はありません。頭で理解しているのと、その場面を映像として見るのとでは大違いです。イエス・キリストがわたしたちの罪の贖いのために流してくださった血潮の貴さを改めて思わされます。

 映像で見るということは強烈な印象を与えるという点では優れていますが、しかし、聖書が控えめにしか語っていないところに心を奪われてしまうという点では、必ずしも聖書を理解する助けになるというわけでもありません。

 不思議なことに聖書は十字架刑の悲惨さをほとんど描写していません。きょう取り上げようとしている十字架の場面そのものでさえ、イエス・キリストが当然味わった痛みや苦しみについてほとんど何も記してはいません。むしろ、十字架におかかりになったイエス・キリストを取り巻く人々により多くの紙面を割いています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 23章32節〜38節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。[そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」]人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。

 きょうの個所から、いよいよ十字架の場面そのものが描かれます。一回で取り上げるには分量が多いので、三回に分けて取り上げることにしました。今、朗読した個所は十字架におかかりになったまさにその時を描いた個所です。

 エルサレムの町はずれの刑場まで連れて来られたイエス・キリストは、「されこうべ」と呼ばれる場所で他の二人の犯罪人と共に十字架にかけられます。アラム語でこの場所はゴルゴタと呼ばれています。おそらく地形が頭蓋骨のように盛り上がった丘をなしていたからでしょう。
 一緒に十字架につけらた二人の人物をルカ福音書は「犯罪人」(カクールゴイ=悪いことを行う人たち)と呼んでいます。他の福音書では彼らのことを「強盗」(レースタイ)と呼んでいますが、この「強盗」という言い方は、後にユダヤ人歴史家であるヨセフスが熱心党の人々を悪く言う時に使った言葉です。おそらく、イエス・キリストと共に十字架につけられた犯罪人というのは、釈放されたバラバと同じように、都エルサレムで民族解放のための暴動を起こした者たちであったと思われます。
 「これはユダヤ人の王」と記された罪状書きの札が示しているとおり、イエス・キリストは他の二人の犯罪人と同じように、ローマ帝国に反逆する謀反人として処刑されたのでしょう。少なくとも、この光景を目にした当時の人々が思うことは、イエス・キリストは救い主としてではなく、謀反人として処刑されたのだ、ということです。誰に眼にもそうとしか映らなかったはずです。

 その様な状況の中でお語りになったイエス・キリストの言葉が記されています。

 「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(23:34)

 残念ながら、この言葉は古い時代の様々なタイプの写本には欠けています。従ってもともとルカによる福音書になかったのではないかとも考えられています。
 けれども、もともとなかった言葉をあえてここに挿入しなければならない積極的な理由を見出すこともできません。むしろ、本来はあったにも関わらず、それを削除してしまいたくなるような理由は少なくとも二つほど考えられます。一つは他の福音書にはこの言葉がないということです。他の福音書の記述にあわせて、削除されてしまったという可能性はなくはありません。もう一つは、この後、戦争でユダヤ人たちはローマに負けてしいますが、そのことから、キリストの祈りは聞き入れられなかったのではないかと思う人たちが、この祈りの言葉を不都合と考えて削除してしまったという可能性も考えられます。

 むしろ、この祈りの言葉は、「敵を愛し…、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい」(ルカ6:27-28)と教えるイエス・キリストの言葉と一致しているということから考えて、もとからここにあったとしても不思議ではありません。さらにルカ福音書の著者は後にステファノの殉教の記事を書いていますが、そこでステファノは「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と祈っています。この殉教の際の祈りが、イエス・キリストの十字架上での祈りを模範としたものであると考えると、当然、ルカ福音書のこの個所に自分を迫害する者のために祈るキリストの言葉があったと考えられます。さらに、使徒言行録は、自分たちが何をしているのか分からずにキリストを十字架にかけてしまった「ユダヤ人の無知」について言及しています(3:17、13:27)。そうした事柄から考えると、34節に記される赦しの執り成しをするキリストの祈りは、もともとここにあったと考える方が自然でしょう。

 さて、イエス・キリストが執り成してその赦しを祈った「彼ら」とはだれのことでしょうか。その彼らの具体的な行動が引き続いて記されています。

 キリストを十字架にかけた処刑の執行人たちは、イエスの服をくじで分け合っています。イエスを訴えて死刑判決に持ちこんだ議員たちは、イエスをまことの救い主とは認めずに、「自分を救ったらよい」と嘲笑っています。処刑に立ち会ったローマの兵士たちまでも同じように侮辱の言葉をキリストに浴びせます。

 そうした彼らも含めて、ご自分を十字架にかけた人々の罪を赦そうと、キリストは執り成して祈っているのです。

 ところで、旧約聖書のイザヤ書の53章は「苦難の僕」と呼ばれる有名な個所ですが、そこにはイエス・キリストの受難を思わせる預言の言葉が記されています。
 苦難の僕について人々はこう思っています。

 「神の手にかかり、打たれたから 彼は苦しんでいるのだ、と。」(イザヤ53:4)

 しかし、実際はそうではありません。
 「彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。」とイザヤは預言します(イザヤ53:5)」。

 そして、この苦難の僕を締めくくる言葉はこうです。

 「多くの人の過ちを担い 背いた者のために執り成しをしたのは この人であった。」(イザヤ53:12)

 苦難の僕としてイエス・キリストが担ったのは、ただあの歴史的事件に直接関った人たちの罪だけではありません。そうではなく、まさにわたしたち罪人の罪を担って十字架におかかりになり、わたしたちの罪が赦されるようにと執り成しの祈りをささげてくださっているのです。