2011年1月6日(木)ゴルゴタへの道で(ルカ23:26-31)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
なんのために生きているのですか、という質問はよく尋ねられる質問です。しかし、あなたはなんのために死ぬのですか、という質問はほとんど尋ねられることがありません。
それもそのはずです。「死」というものに普通は積極的な意味を見出すことはできないからです。意味のある生き方については誰もが考えますが、意味のある死に方ということを考える人はほとんどいないでしょうし、死に意味が見いだせないからと言って、いつまでも生き続けることもできません。いかによりよく生きるかということによってだけ、意味のある人生の終わりを迎えることができるというのが精一杯の答えです。
しかし、イエス・キリストの死は、死そのものにも意味がありました。いえ、十字架の死に向かうようにと、イエス・キリストはこの世に遣わされてきたのです。
きょう取り上げる個所は、その十字架の死へと向かうイエス・キリストの姿を描いた場面です。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 23章26節〜31節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた。民衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れを成して、イエスに従った。イエスは婦人たちの方を振り向いて言われた。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。人々が、『子を産めない女、産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房は幸いだ』と言う日が来る。そのとき、人々は山に向かっては、『我々の上に崩れ落ちてくれ』と言い、丘に向かっては、『我々を覆ってくれ』と言い始める。『生の木』さえこうされるのなら、『枯れた木』はいったいどうなるのだろうか。」
ルカによる福音書は、イエスとは何者であるかという信仰を弟子たちが告白したことを境に、エルサレムへ向かって歩まれるキリストの姿を一貫して描いてきました。
少しおさらいになりますが、ペトロが弟子たちを代表して、「(あなたは)神からのメシアです」とイエスについての信仰を告白した直後に、イエス・キリストはご自分の使命について、初めて弟子たちにお語りになりました。それはエルサレムで迎える苦難を予告するものでした(9:18-22)。
それから間もなくして、天に上げられる日が近いと悟ったイエス・キリストは、いよいよエルサレムに向かう決意を固められ、エルサレムに向かって旅の道を進み始めました(ルカ9:51)。
こうして今、キリストは予告通りにエルサレムで長老、祭司長、律法学者たちから排斥され、十字架刑を受けようと、十字架を背負って刑場への道を歩んでいるところです。その刑場へ向かう途上で起こった出来事が、きょう取り上げている個所です。
まず初めに、田舎から出てきたシモンというキレネ人のことが記されます。この人については、ほとんど知られておりませんが、しかし、このイエス・キリストの十字架を背負わされたがために、後世まで名前が覚えられています。
人間的な目で物事を見るならば、それはあくまでも偶然的な出来事でした。「田舎から出てきた」とありますように、おそらくはエルサレムで行われる過越しの祭りを祝いにエルサレムにやってきたのでしょう。あるいは、文字通りの意味にこの個所を読めば、「畑からやってきた」ということですから、朝の畑仕事を終えてたまたまそこを通りかかったのかもしれません。どちらにしても、シモンにとってはキリストに代わって十字架を背負わされたことは、降ってわいたような災難でした。
彼は「あるキレネ人が」とは記されないで、「シモン」という名前が伝えられています。マルコによる福音書には、さらにこの人物が「アレクサンドロとルフォスの父」であったと記されています(マルコ15:21)。「誰それの父」という言い方は、その「誰それ」が誰であるのかが読者に知られているのでなければ、それを記す意味があまりありません。おそらくマルコによる福音書の最初の読者にとっては、アレクサンドロもルフォスもよく知られていた人たちだったのでしょう。「シモン」というありふれた名前が、「アレクサンドロとルフォスの父」と呼ぶことで、その人物が誰であるのか特定できるようになったのだろうと思われます。
もちろん、そこに記される「ルフォス」と言う人物が、ローマの信徒への手紙に出てくるルフォス(ローマ16:16:13)と同一人物であるのかは断定できません。しかし、ルフォスとアレクサンドロという二人の人物がクリスチャン仲間には知られた人物であったことは十分想像がつきます。おそらく、この偶然とも言える出会いが、後にシモンをキリストに従う者となし、その子供たちをもキリスト者となったのでしょう。
さて、十字架の処刑場へと向かう道すがらでの出来事がもうひとつ記されています。それはイエスのことで嘆き悲しむ婦人たちに声をおかけになるイエス・キリストの姿です。
イエスについてやってきたこの婦人たちとは一体何者なのでしょうか。ルカによる福音書はこの後「ガリラヤから従ってきた婦人たち」について、何度か言及しています(23:49、23:55)。具体的にはマグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリアなどの婦人たちですが、ここで嘆き悲しながらイエスに従ってきた婦人たちは、そののガリラヤからの婦人たちとはまた違う婦人たちでしょう。エルサレムは過越祭のために大勢の人々が集まっておりましたから、その中に大勢の婦人たちもいたはずです。もちろん、これらの婦人たちにもイエス・キリストのことは知られていたことでしょう。単に職業的な泣き女と断定することはできません。この婦人たちの嘆き悲しみを、単なる作り泣きだと決めつけることはできません。
イエス・キリストの身の上に降りかかっている災難を知って心から嘆き悲しんでいるからこそ、イエス・キリストがその婦人たちにおかけになった言葉には、重い意味があるのです。
イエス・キリストは、十字架におかかりになる直前まで、ご自分のことではなく、ご自分のために嘆き悲しんでいる婦人たちのことを心にとめていらっしゃいます。イエス・キリストはこの婦人たちにおっしゃいます。
「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。」
イエス・キリストがゴルゴタの丘で十字架にかけられることは、イエス・キリストご自身がすでに予告していた出来事でした。そのためにこそ、キリストは神のもとから遣わされたのですから、嘆き悲しむ必要はありません。むしろ、自分たちの身の上にまさに降りかかろうとしていることのために、自分と自分の子供たちのために泣くようにとおっしゃいます。
それは、一つにはこのあと起ころうとしているユダヤとローマの戦争のことが念頭にあったからでしょう。ユダヤ民族はこのあと戦争によってエルサレムの神殿を失うことになり、甚大な被害を被ることになります。
しかし、イエス・キリストがおっしゃっているのは戦争のことばかりではありません。やがてやって来る終末の日、神の審判の前に立つその日が刻一刻と迫ってきているからです。イエスのことで悲嘆にくれるよりも、まずは自分の身に迫っている神の怒りの日のことを真剣に考えるべきなのです。
このイエス・キリストの言葉は、決してご自分のことで嘆き悲しむ婦人たちを冷たく退けていらっしゃるのではありません。むしろ、永遠の命にいたることを願って婦人たちに注意を促してくださっているのです。それは今のわたしたちも心に留めなければならないことです。