2010年12月30日(木)民衆の望むままに(ルカ23:13-25)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
感情というものは、暴走し始めると、とんでもないエネルギーを持つものです。もっともそれが個人一人の感情であれば、その人一人が気持ちを治めることで、とんでもない結果を招かずに済むことができます。
しかし、集団の感情となると、一人や二人が感情を治めることができたとしても、集団の暴走を押しとどめることはできません。
イエス・キリストの裁判にかかわった民衆たちの態度を見ていると、押しとどめることができない集団の力を感じます。それは論理や信仰といったものによって動かされているというよりは、むしろ民族的な感情が集団を動かしているように感じます。
さて、きょうはユダヤの民衆に押し切られて、十字架刑の判決を下されてしまうイエス・キリストの裁判から学びたいと思います。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 23章13節〜25節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
ピラトは、祭司長たちと議員たちと民衆とを呼び集めて、言った。「あなたたちは、この男を民衆を惑わす者としてわたしのところに連れて来た。わたしはあなたたちの前で取り調べたが、訴えているような犯罪はこの男には何も見つからなかった。ヘロデとても同じであった。それで、我々のもとに送り返してきたのだが、この男は死刑に当たるようなことは何もしていない。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。」しかし、人々は一斉に、「その男を殺せ。バラバを釈放しろ」と叫んだ。このバラバは、都に起こった暴動と殺人のかどで投獄されていたのである。ピラトはイエスを釈放しようと思って、改めて呼びかけた。しかし人々は、「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び続けた。ピラトは三度目に言った。「いったい、どんな悪事を働いたと言うのか。この男には死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。」ところが人々は、イエスを十字架につけるようにあくまでも大声で要求し続けた。その声はますます強くなった。そこで、ピラトは彼らの要求をいれる決定を下した。そして、暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバを要求どおりに釈放し、イエスの方は彼らに引き渡して、好きなようにさせた。
前回はいったんイエス・キリストの身柄を受け取ったガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスの姿から学びました。きょうの個所は、再びヘロデのもとから送り返されてきたイエス・キリストをめぐる裁判の記事です。
ルカによる福音書は、イエスの潔白さを何度も弁護すようとする総督ピラトの姿を描きます。すでに前々回に取り上げた個所でも、ピラトは「この男に何の罪も見いだせない」とはっきりと述べています(23:4)。
今日の個所でも、ピラトは「訴えているような犯罪はこの男には何も見つからなかった」と繰り返したうえで(23:14)、さらに、ヘロデがキリストを自分のところへ送り返して来たのは、イエス・キリストが無罪である証拠だ、とまで言います。
現にイエス・キリストはユダヤ人たちが訴えているようなローマ帝国転覆をたくらむ革命家などではありません。そういう意味では、まさにピラトの言っていることは正しい判断であると言ってよいでしょう。そして、ルカによる福音書は、そのように証言するピラトの言葉を漏らすことなく後世に伝えています。民衆が十字架刑の要求を叫び始めても、それでもイエスの無罪を主張してやまないピラトの姿を記録にとどめています。
何の罪もないお方が、わたしたちの身代わりとなって十字架におかかりになった、という罪の赦しと救いの奥義にとって、このピラトの証言は重要です。イエス・キリストの死は、まことに罪のないお方の死だったのです。
しかし、ピラト自身がどうしてそこまでしてイエス・キリストの無罪を主張する必要性があったのか、ということを、人間的な目で考えると、不思議としか思えません。もちろん、ピラトはローマ帝国の権威を背負った総督として、ローマ法の正義と公平を守り抜く義務があったといえば、その通りかもしれません。しかし、ローマ市民権のない一人の男の無罪を、民衆が暴発をするかもしれないことをかえりみずに繰り返すのは、無謀ともいえます。ピラトにとっては自分の在任中に民衆が暴動でも起こして汚点を残すよりも、一人の男を民衆の望み通り処刑してしまう方がずっと簡単だったはずです。
どのような意図があって、ピラトがイエスの潔白性を主張してやまなかったのかは、今となってはその真意はわかりません。しかし、そのおかげで、預言の言葉のとおり、無垢なお方として、キリストは身代わりの死を遂げられた、ということを、ピラトの証言によってわたしたちは確認することができるのです。
もっとも、ピラトはイエス・キリストの無罪を主張しましたが、民衆をねじ伏せてでもイエス・キリストを釈放しようとはしませんでした。歴史に「もし」ということはありませんが、もし、イエスが釈放されてしまったならば、キリストの十字架もなく、救いの実現もなかったでしょう。ピラトは自分の思いが及ばないところで、神の救いの御業に深く関ることとなったのでした。
さて、キリストを無罪とする説得に応じようとしない民衆に、ピラトはひとつの提案をします。それは祭りの時の習慣にならって、囚人一人を釈放しようというものでした。ピラトがこの祭りの慣例をイエス・キリストに適用しようとしたのは、必ずしも、正義感から出たものではなかったでしょう。イエスを祭りのときの慣例で釈放するという大義名分があれば、ことを荒立てないでこの事件を処理することができると考えたからでしょう。
「祭りの時の慣例だ。囚人を一人解放しよう。イエスを赦そうと思うがどうだ。」と自分が言えば、ことはすべて終わる思っていたに違いありません。
しかし、ピラトの期待通りにことは運びませんでした。民衆はイエスではなくバラバの釈放を声高に要求します。
実は、このバラバという人物は都で起こった暴動と殺人のかどで投獄されていた人物です。つまり、ローマ帝国によるユダヤ民族の支配に敵意と反感とを持っていたテロリストだったのです。バラバこそユダヤ御指導者たちが訴え出ているローマ帝国の転覆をねらう謀反人であるはずなのに、民衆たちはイエスを捨てて、バラバを選びます。皮肉なことに、自分たちが罪状を掲げて訴え出ているイエスという男は無実無根、潔白であるのに対して、自分たちが釈放を求めているバラバという男は、まさに自分たちの掲げた罪状の通りの犯罪を犯した人間なのです。
民衆がバラバを選び、ピラトがついにはそれに応じざるを得なかったというのは、人間の歴史の中では、そういうことは常に起こりうることです。しかし、聖書はこうして処刑されることになったイエス・キリストを、ユダヤ民衆とピラトの駆け引きの犠牲者だ、とは言いません。
むしろ、こうして明らかになる人の罪の大きさの中で、イエス・キリストは救いの御業を完成させていくのです。キリストについて聖書に書いてあることは、必ず実現するのです。その過程で明らかになる人間の罪深さと、神の救いの実現とのコントラストこそが、この場面を読み解く鍵なのです。