2010年12月16日(木)王であるキリスト(ルカ23:1-5)
ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。
「君子危うきに近寄らず」という諺があります。誰でも自分から好んで危険に近寄るようなことはしないものです。災難が降りかかりそうだと予測できれば、それを避けて通るのが見識のある人間のすることです。
しかし、それも度が過ぎると、事なかれ主義になったり、自分の保身だけを考えて、降りかかりそうな厄介な問題は、できるだけ先送りにしたり、見て見ぬふりをしてしまうという態度になってしまいがちです。
きょう取り上げようとしている、イエス・キリストを裁いたピラトという人物は、ある意味で、事なかれ主義だったといってもよいかもしれません。面倒に巻き込まれたくないという保身の思いが見え隠れしています。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 23章1節〜5節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。
そこで、全会衆が立ち上がり、イエスをピラトのもとに連れて行った。そして、イエスをこう訴え始めた。「この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました。」そこで、ピラトがイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」とお答えになった。ピラトは祭司長たちと群衆に、「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」と言った。しかし彼らは、「この男は、ガリラヤから始めてこの都に至るまで、ユダヤ全土で教えながら、民衆を扇動しているのです」と言い張った。
先週はイエス・キリストがユダヤの最高法院で裁きを受ける場面を学びました。その裁きでいったい何が明らかになったのかは、その個所を何度読み返してみてもピンと来るものはありません。「おまえはメシアか」という尋問にも、「では、神の子なのか」という尋問にも、イエス・キリストは、「はい」とも「いいえ」ともお答えになっていないからです。
にもかかわらず、先週の個所は「これでもまだ証言が必要だろうか。我々は本人の口から聞いたのだ」という最高法院の議員たちの言葉で終わっています。イエス・キリストの口から出るどんな答えも、彼らにとってはすべてがイエスを訴えるに十分な証拠に聞こえたのでした。そういう意味では、明らかになったのはイエス・キリストの罪状ではなく、イエス・キリストをどうしても処刑してしまいたいと願うユダヤ最高法院の一致した思いです。
きょうの個所では、その明らかになったという事実をもってユダヤ総督のピラトのもとに訴え出るユダヤ人たちの姿が描かれます。ピラトのもとに訴えを持って行ったのは、合法的に自分たちの計画を進めるためでした。というのも、ユダヤ人たちには死刑執行の権限がなかったからです(ヨハネ18:31)。そのために、ローマ帝国から派遣されていたユダヤ属州総督のポンテオ・ピラトに自分たちの訴えを持ちだしたのでした。
ちなみに、このピラトという人物については、新約聖書の四つの福音書以外に、ほとんど詳しい資料がありません。ピラトの生涯については、イエスに十字架刑を言い渡したということがもっとも特筆されるべきこととして後世に伝えられていますが、それ以外のこととなると、ユダヤ人歴史家のヨセフスが書いた歴史書の中にいくつかの記述を見るくらいです。
さて、先週学んだ個所の最後の言葉は「これでもまだ証言が必要だろうか。我々は本人の口から聞いたのだ」というユダヤ人たちの言葉でした。「おまえは神の子か」と尋問されて、「わたしがそうだとは、あなたたちが言っている」と答えたイエスの言葉を取り上げて、「十分な証拠だ」というのですから、「神の子」であることが訴えの理由になるのか、と思うと、そうではありません。
ピラトのもとに訴えを持ちこんだ人々は、「神の子」などという宗教的な用語は一言も用いようとはせずに、ローマ帝国に対する反逆者としての罪状を一貫して並びたてます。いったいユダヤ最高法院では何が明らかになったのか、そんなことはどうでもよいような訴えの口実です。
「この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました。」
これだけの罪を立証するだけの十分な証拠が、今までのユダヤ最高法院の裁きで明らかになったとは、とても思えないような訴えです。でまかせと言えばまったくのでまかせです。
確かに、「この男はわが民族を惑わし」というのは、ユダヤの指導者たちにとってはそう思えたかもしれません。自分たちの手の内に民衆を留めておくことができなくなるほど、イエス・キリストの存在の影響は大きかったのですから、彼らがイエスのことを「この男はわが民族を惑わし」ていると思ったのは、彼らの正直な気持ちです。
では、「皇帝に税を納めるのを禁じ」という部分はどうでしょうか。確かにルカによる福音書20章20節以下に記されているとおり、イエス・キリストは「皇帝への税金」について尋ねられたことがありました。そのときイエス・キリストがお答えになったのは、皇帝に税を納めることを禁じることではなく、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返すべきである、ということでした。
「自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました」という部分についても、イエス・キリストがユダヤ最高法院でお答えになった言葉はあいまいなものでしかありませんでした。自分が王たるメシアであることを肯定しているとは断定できる答えではけっしてありませんでした。
しかし、それにもかかわらず、ユダヤ人たちはイエスという人物を、メシアであり、王であり、従ってローマ皇帝に敵対する者としてピラトのもとに訴え出ているのです。そうすることが、イエス・キリストを十字架にかけてしまう一番の近道であり、確実な方法であると彼らは考えていたからでしょう。
ピラトには、その悪意ある訴えがよく見えていたようです。けれどもそうだからと言って、特別にイエス・キリストを擁護する姿勢を貫くわけではありません。「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」と言いながらも、すぐに釈放しようとはしません。イエス・キリストが領主ヘロデの配下の住民であることを知ると、さっそくこの厄介な事件をヘロデの手に渡してしまいます。事件がこじれて厄介なことにならないように、うまい理由をつけて引き渡してしまうのです。
では、イエス・キリストは王でもなければメシアでもないのでしょうか。たしかに、ユダヤ人たちが訴えるような意味での王でもなければメシアでもありません。しかし罪からの究極の救い主という意味では、イエスはまことのメシアにほかなりません。またあらゆるものを支配する権威を持っているという意味で、イエスはまことの王に他ならないお方です。
ルカ福音書の著者は、イエスこそがまことのメシアであり、まことの王であることを信じてこの福音書を記しています。しかし、今は、あえて十字架への道を歩まれる罪なきイエスを描くことに徹しているのです。なぜなら、自ら命をささげるお方こそが、まことの王であるメシアだからです。