2010年11月25日(木)ユダの裏切り(ルカ22:47-53)

ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会がお送りする「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。この時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

きょう取り上げようとしている個所は、十二弟子の一人であるイスカリオテのユダがイエス・キリストを裏切る有名な場面です。なぜユダはイエス・キリストを裏切ったのか、この人間的な興味には、残念ながら聖書は直接の答えを与えてはくれません。ただ、神の深い御計画の中でこのことが起こったとだけ教えています。
ですから、きょうの学びでも人間的な興味からではなく、神の御計画の中でユダの裏切りを甘んじてお受けになるキリストの姿に目を留めて学びたいと思います。

それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書ルカによる福音書 22章47節〜53節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

イエスがまだ話しておられると、群衆が現れ、十二人の一人でユダという者が先頭に立って、イエスに接吻をしようと近づいた。イエスは、「ユダ、あなたは接吻で人の子を裏切るのか」と言われた。イエスの周りにいた人々は事の成り行きを見て取り、「主よ、剣で切りつけましょうか」と言った。そのうちのある者が大祭司の手下に打ちかかって、その右の耳を切り落とした。そこでイエスは、「やめなさい。もうそれでよい」と言い、その耳に触れていやされた。それからイエスは、押し寄せて来た祭司長、神殿守衛長、長老たちに言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってやって来たのか。わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいたのに、あなたたちはわたしに手を下さなかった。だが、今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている。」

ユダがイエス・キリストを裏切り、キリスト逮捕のきっかけを作った場面は、四つの福音書のすべてが描いている有名な場面です。その四つの福音書の中で、ルカによる福音書は他の福音書にはない書き方で事件を描いています。

ルカによる福音書が描くキリスト逮捕の場面は三つの部分から構成されています。第一の部分では裏切り者のユダとイエス・キリストにスポットライトが当てられます。つづく第二番の部分では、他の弟子たちとキリストにスポットライトが当たります。そして、最後の部分では、イエスを逮捕しにやってきた人々とイエス・キリストにスポットライトを当てて事件を描いています。

それでは、それぞれの部分についてもう少し詳しく見ていきたいと思います。

まず初めに、裏切りにやってくるユダとイエス・キリストが対峙する場面が描かれます。他の福音書では、イエス・キリストを逮捕するためにユダが引き連れてきた大勢の人々のことにも言及されています。しかし、ルカによる福音書ではあえて余計な描写を後回しにして、読者の注意がユダ以外の人々に散ってしまうことをさけています。こうして裏切り者のユダとイエス・キリストにだけスポットライトが当てられます。

ユダの行為は簡潔にこう記されます。「ユダという者が先頭に立って、イエスに接吻しようとして近づいた」

ここでもルカによる福音書は、他の福音書が描いているような、予め交わされた逮捕の打ち合わせについては何も記しません。接吻をもってイエス・キリストを裏切ろうとするユダの行為を簡潔に描きます。

イエス・キリストがユダに語った言葉も、その一点についてだけです。

「ユダ、あなたは接吻で人の子を裏切るのか」

接吻は本来は親愛の情をこめた挨拶です。しかし、ユダの接吻は表面上は親愛の情を表しながら、しかし、心が伴わない見せかけの行いでしかないのです。そこにユダの取った行動の卑劣さが浮き彫りにされています。最も心許すもの同士の間で交わされるべき挨拶をもって、ユダはイエス・キリストを欺いたのです。そのことがイエス・キリストによって指摘されています。

しかし、イエス・キリストはそれ以上のことは何もおっしゃいません。最後の晩餐の席上でおっしゃった「人の子は定められた通り去っていく」(22:22)という予告の通りに、ご自分に定められた神の御計画を受け入れていらっしゃるのです。

ユダの側面から見れば、綿密な打ち合わせのもとになされた逮捕劇だったかもしれません。しかし、神の側から見れば、それは卑劣な人間の計画であると同時に、しかし、その人間の愚かな計画をも包み込みながら、神の救いの計画が実現しつつあるのです。

第二の部分では、弟子が取ったとっさの行動とそれをたしなめるイエス・キリストの姿が描かれます。

ただならぬ状況を察知した弟子たちは、とっさに武力で抵抗して、イエス・キリストの身の安全をはかろうとします。確かに最後の晩餐の席上で、イエス・キリストは弟子たちにおっしゃいました。「剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい。」(22:36)

弟子たちはキリストのおっしゃるこの言葉ぼ意味をこの時も理解していなかったのでしょう。今こそ主がおっしゃる剣を必要とするときが来たのだ、と思ったに違いありません。
「主よ、剣で切りつけましょうか」と言うが早いか、弟子のうちのある者が大祭司の手下に打ちかかって、その右の耳を切り落としてしまいます。
ヨハネによる福音書の18章10節によれば、その剣を抜いた弟子とはペトロであり、被害に遭った大祭司の手下はマルコスという人でした。

しかし、イエス・キリストは暴力に暴力で抵抗しようとする弟子たちの行動を決して肯定したりはしませんでした。そればかりか、傷を負った者をお癒しになって、その人への深い憐れみと愛とをお示しになったのです。
ここで描かれるイエス・キリストの姿も、人間によって行わる逮捕劇に翻弄されてしまう姿とは異なっています。逮捕されるイエス・キリストがこの場の主人として、采配を振るっているのです。

三番目の部分には、逮捕にやってきた具体的な人々のことが描かれます。ユダに先導されてやってきたのは祭司長、神殿守衛長、長老たちだとルカ福音書は描きます。実際にやってきたのは、マタイやマルコ福音書が描いているように、彼らによって遣わされた下役の人々であったでしょう。あるいはヨハネ福音書が描いているようにそこには一隊の兵士もいたかもしれません(ヨハネ18:3)。
これらの人々の不当な行いに対してイエス・キリストはおっしゃいます。

「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってやって来たのか。わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいたのに、あなたたちはわたしに手を下さなかった。」

その不当さは第一に、神から遣わされた教師に対するような態度ではなく、まるで強盗にでも向かうような装備をもってやってきたこと。第二に、白昼堂々と教えているイエス・キリストに対して、夜陰に乗じ、民衆の目を避けてイエスを捕らえようとしていることです。

イエス・キリストはこのような時代を評して「だが、今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている」とおっしゃいます。なるほど、神の子を罪人として引き渡そうなどどは、闇が力を振るっているとしか思えません。しかし、それは決して永久に続く闇ではありません。
イエス・キリストだけが、自分から進んで十字架の上で命をささげ、死者の内から復活して、闇の力に勝利をもたらしてくださるお方なのです。